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No.1-1 ▼
神は妄想である―宗教との決別 / レビュー総評点:1049
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ASIN:4152088265 / 売上順位:5882
早川書房(2007-05-25)リチャード・ドーキンス/翻訳:垂水 雄二 ¥ 2,625(中古:¥ 1,500)
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未読者の「レビュー」にコメント
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■ alcyonejunさんのレビューについて
「宇宙が何なのか、生命とは、意識とは何なのか、まだ何もわかっていない のです」というのは間違いです。少しは進化や天体について勉強してほしいも のです。「<すべてが分かっている>というわけではない」は本当です。しかし、 「何もわかっていない」というのは完全に勉強不足によるものです。 「神が存在しないことを証明するのは不可能」というのも、ドーキンス自身が 述べていることです。だからと言って、「不在を証明するのが不可能だから、 存在する」という議論(というよりは論理の飛躍)と、「(妖精のように) 人間が過去に勝手にでっちあげた概念なのだから、そんなものは存在しないと 仮定してもいい」という議論が同程度に正しいわけではない(そして科学の 発展は後者の議論を後押ししている)ということは理解したほうがよいでしょう。 汎神論的な神については、ドーキンスは否定していません。しかし、1章の ワインバーグの引用からもわかるように、「神」と言う言葉を一神教を信じる 人間が使う「神」と違う意味で使って混乱を招いて、無意味な議論に陥るという のがこの本について議論している人にありがちなので、気をつけたほうがいいで しょう。 1章を読まずに(あるいは、読むこともできずに)「タイトルが誤解を招く」と いうのも不当な評価です。こういう人達のためにドーキンスはわざわざ1章で 丁寧に「神」の定義について確認しているのに、本をタイトルと勝手な思い込み だけで判断する人にはやはり通じないのでしょうか。 ■ アブラさんのレビューについて 「著者は科学万能主義や、アメリカ的な自由・平等主義に関しては何も疑問を呈さ ずに絶対的な真実として語っています」とありますが、よく読んでください。そう いった価値観については、絶対的な言明は注意深く避けるような書き方になってい ます。 「しかし彼もまた(悪い意味で)アメリカ人である」という発言については一言だ け。 ドーキンスはイギリス人です。 (Bob / 2007-10-18)
レビュー、すごいですね。
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他の方の書いたレビューを見てみると、感想が真っ二つに割れていますね。
見ているだけでもおもしろいのですが、私はこの本を読んでチョー感動!した派の視点から、 レビューを書いてみようと思います。 本書の前半の議論は、「神がいるかどうか証明する事はできない(と思われる)けど、 その蓋然性はどうなの?」というところから始まります。 しかし、ないものは無い、ということを証明するのは困難です。 そこで、本書ではイエス/ノーで議論するのではなく、「神はいるっぽいのか、いないっぽいのか」の話をします。 もちろんタイトルからもわかるように、本書の主張は「いないっぽい」ということなのですが。 ということで、前半の内容だけにとらわれてしまうと、 「痛快!」だとか、「くだらねー!」といった感想を持ち、それで終ってしまう可能性があります。 しかし、これには注意しなくてはなりません。 なぜなら、これがドーキンスのもっとも主張したいことではない(と思われる)からです。 本書のオビには「あのドーキンスがなぜここまでむきになるのか」とあります。 ドーキンスがこのような大著を上梓した意義というのは、まさにここにあるのです。 科学が何らかの現象を数学的に記述しただけのものであるとするなら、それは一見したところ無機質に見えるかもしれません。 しかし、それはとても深遠で、まだわからないことだらけだから、人はそれをもっと知りたいなと思う。 論理的に記述された、自然現象の数々。人はそれを眺めているだけでも感動できるし、 十分満たされた気持ちになります。こうして人は科学を知り、自然を知り、やがて人間のことを知るようになるわけです。 ユネスコ憲章にもありますが、人は自分以外の人間、つまり相手のことをよく知ることで、 憎しみの根源すらも絶つことができるのではないでしょうか。そういった意味で、 子供達には宗教を教えるよりも、科学を教えるほうが、相互理解の点においても、よいことなのではないか。 ドーキンスの主張を聞いていて、私はそう思ったのです。 しかし、宗教が存在することで、文化的な衝突の種がまかれてしまったり、科学への好奇心が阻まれてしまうという実態がある。 阻むどころか、それを知ろうとする事自体が許されないという現実。 科学者であり、ダーウィニストのドーキンスは、特に批判の矢面に立っていたに違いありません。 この世界を、どうしたらもうちょっと良くできるのか。ドーキンスは、この答えを本書に綴っています。 読むべし。名著です。(nextlevel_man / 2008-02-02)
信仰全体への宣戦布告。蒙を啓き豊かな歴史を目指すために
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何かとお騒がせのドーキンス氏ですが、今回は生物学会ではなく、宗教全体を相手に回し、歯に衣着せぬ攻撃を繰り広げています。
もちろんこれは、彼が進化論を専門としているため、創造論などの教義と対立し攻撃を受けるからであり、すでに『悪魔に使える牧師』などで宗教批判を展開していました。 今回は邦訳で550ページになる大冊で、これでもかこれでもかと無神論の優位を主張し、相手がキリスト教、イスラム教に限らず、また原理主義だけを相手とせず中庸派、穏健派も含めて相手取っています。 その理由は<第8章 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?>と<第9章 子供の虐待と、宗教からの逃走>に明言されています。 p448 「宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちはオサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。ではどうすればいいのか、といえば、こうして力説する必要もないほど自明なことだが、宗教上の信念というのものをフリーパスで尊重するという原則を放棄することである。それこそが、私がもてるかぎりの力をつくして、いわゆる「過激主義的な」信仰に対してだけでなく、信仰そのものに対して人々に警告を発する理由の一つなのである。」 もちろん、神の存在証明に対する反論や、道徳面からの宗教の必要性の有無など、宗教側からの攻撃(脅迫メールなどが掲載されていますが、信仰者からのものとは思えないほどグロテスクなものです)に対する緻密な反証にも多くのページが割かれており、最新の関係書籍からの引用も多いのでとても参考になります。 (この方面の引用では、バートランド・ラッセルのものは唸らされる秀逸ものがたくさんありました。アインシュタイン、カール・セーガンなどの言葉も深みがあり感動) "アンチ・トンデモ"の最強版のような一冊ですし、信仰を持つ人々からすればはらわたが煮えくり返るようなところがあるでしょうが、ドーキンス氏はけっして人間否定でも科学万能主義でもなく、蒙を啓き限界を押し上げて、人間の歴史をより豊かにすること、そのために子供たちの精神を大事にすることを、心から願っているのだと思います。 (Tack / 2007-10-24)
「利己的遺伝子」であまりにも有名なドーキンス。この本では、真っ向から神、宗教を取り上げる。進化や遺伝子という言葉で人間社会までも説明し続けてきた著者は、これまでもその説の中で神を否定する発言をしてきた。この本では、なぜここまでと思うほど執拗に、過激な言葉を使って宗教を否定する。なんだか著者の身の危険を心配してしまうほどの熱さをもった本である。
解説にも触れられているが、この熱さは、昨今の宗教が表に現われた世界的な戦いの危惧も念頭にあるからだろう。内容としては「創造主なしでこの世界が説明できるか」といった著者の専門、進化生物学に関係したものからはじめ、更に踏み込んで宗教や徳の起源「神がなくても人は善を行えるのか」といった問題まで進化から説明していく。「神なしでも徳はある」、「徳も進化で説明できる」という姿勢は、マット・リドレー「徳の起源 他人をおもいやる遺伝子」 やダニエル・C.デネット 「自由は進化する 」 と共通である。 取り上げられている反証のための例は主に一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)に関したものであるが、著者をはじめとする無神論者への罵倒などは、それこそスピノザの時代にもあったことなのだが、現代でもこれほどまでの「信じ方」があるのか、と思われるものがけっこうある。かなり最近のニュースなどもとりあげられている。一つの一神教が大勢を占めているところではそうなってしまうのか、とも感じる。 宗教に対してのかなり過激、執拗な書き方に、へきえきとする読者もでるとおもう。しかし最終章(第10章)を読むと、著者の言いたいことが少し冷静な形でみえてくる気がするので、とりあえず読み通せないようにおもったら、最終章にざっと目を通してみるとよいかもしれない。「巨大なブルカ」と題された最終章の最後の文章は、人間の今ある状況について、詩的とも言える厳しいが美しいイメージもくれるものだと思う。 人間が世界を理解し、社会を、思考を拡大してきたことに宗教は大きな役割を荷ってきたことは否定できない。しかし、そろそろ「神」なして理解できるところは神から離れてもいいのではないか。本書を読んで感じたのはそういうことである。神を信じていても、「神に頼らないで」きちんと生きればそれに越したことはないのではないか、とも言えるかもしれない。自分を頼らなくても立派にやっていく子供を喜ばない親はない。(そうでない親は子離れできていない)。人間は、そろそろ親元を離れてもいいころなのか。神からの親離れ。邦題には「宗教との決別」と厳しい言葉になっているが、この本はそんなメッセージである。 宗教家の冷静な反応を聞きたいと思う。 (patella / 2007-08-28)
信仰だの宗教だのは、なぜ、破格の特別待遇なのだろう。信仰とさえいえば例外的に兵役をまのがれ(平和主義者というだけでは却下されるのに!)、教義だからという理由でさえあれば「同性愛者を殺せ!」というプリントのTシャツを着て登校する権利が認められてしまう。
信教の自由というものは、それほど強力であって良いという正当な理由があるだろうか? 答えは決まってる。ノーだ。 ドーキンスは、信仰周辺の話題に対する社会全体の過剰な甘やかしや「尊重」は、実のところ「尊重」ではなく、非常に多くの人が、そうとは気がつかないまま、ただ腫れもの扱いしているだけなのではないかと考える。なぜ腫れ物扱いなのだろうか。それはつまり、その欺瞞性を指摘することが、厄介なことになることを薄々気がついているからではないのか。ならば、内心では、欺瞞性があることを無意識的に理解しているからこそ、信仰への疑義を自覚したり、声にすることを恐れているのではないか?もしそれが事実ならば、隠れ無神論者や、自覚していない潜在的な無神論者が大勢いるはずだ。 どうしたらいい?ドーキンスは考える。 せめて、各自が胸を張って無神論者であることを自認することで、苦悩している隠れ無神論者や、潜在的な無神論者が、苦しむことのない社会にしようではないか。それが可能な時代の空気になっているはずだ。 そんなドーキンスの呼びかけは温かい。信仰と現実の折り合いがつかないことで、あなたが苦しむことはないんだ。信仰を捨てても、人は善良でいられるんだ。あなたには、誇り高く健全な無神論という選択肢もあるんだ、と。それはもはや、王の裸を指摘する無邪気な子供ではなく、理性的な大人が、勇気と覚悟をもって「王様は素っ裸だ!」と叫ぶ、誇り高い正直者の姿である。 なんて生真面目で愚直で泥臭くて、不器用なやつなんだろう。 だが、それがいい。 知的勇気と知的誠実さ(それは事実への誠実さに他ならない)を建前だけにせず、真っ正直に歩む道のりは、生真面目で愚直でストイックな道なのだから。 なお、本書において興味深く、意義のある議論はたくさんあるが、ひとつ挙げるならば、信仰が道徳の根拠であるという考えが、いかに醜悪でグロテスクか、そして、実は誰もそんなことは信じていないのだ、という論証である。これは見事で強力なので、一読の価値がある。 そういうわけで、本書は、ただの有神論批判というよりも遥かに深みがあることを強調したい。客観的かつ冷静に読めば、知的好奇心を刺激する話題も多く、事実に誠実であることがどうことかを実感できる誇らしく美しい名著なのだ。(ワカシム / 2008-03-19)
ドーキンスが妄想だとターゲットとしている神とは、主にユダヤ教、キリスト教、
イスラム教といったアブラハム宗教の神です。彼はこの3大宗教を全篇にわたり 手厳しく批判を繰り広げています。あまりの手厳しさに対する読者の疑問のために 「なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?」といった章まで用意されています。 批判の論調も科学者らしく論理的で隙がありません。意地悪で皮肉に満ちている のは原本に忠実にという訳者の功績でしょう。 端から見ていてもアメリカのキリスト教原理主義にはイスラム教原理主義と同様に 困惑する事が多いのですが、こんな精神構造になっているのかと納得がいきました。 現在、アメリカの政治は票田としてのキリスト教会、資金源としてのユダヤ ロービーストにがんじがらめになり、常識的な意思決定ができない状態にあるのでしょう。 本書がアメリカでアマゾンの売り上げトップ10に入り、730通の書評が集まっていることから、 多くのアメリカ知識人は頭では分かっているのではと期待してしまいます。 しかし、教義が物心ついたときから恐怖心を利用して刷り込まれるため、 無神論者になるとカミングアウトすると、私たちの想像を絶するほどの疎外感や 孤独感を味あわなければならないのでしょう。 現状打破に対する提案も盛り込まれており、クリスチャンでない私としては 至極真っ当なことを主張している感じる内容でした。 (Coffey man / 2007-12-26)
神は妄想、世界一の無神論者王国の住人からみれば当たり前以前の常識を、科学界のスターにしてスポークスパースン、ドーキンスがここまでの字数を費やしてまで書かなければならないということが、欧米人を我々が多少なりとも理解しようとするときの困難さを象徴しているかのようだ。中東に民主主義を、なんて舌の音が乾かないうちに、いみじくもブッシュが「現代の十字軍、、」と洩らしたように、イラク戦争は継続中の宗教戦争なのだから、いまや日本人にとっても、神も宗教も人事ではない。普通、科学者はこの種の問題には、どんな角度からであろうと、触れることさえ嫌がるものだ。ドーキンスの蛮勇?いや、男気に拍手を送りたい。翻訳もいいのだろうが、読み物としても面白い。(ゴン / 2008-02-03)
ドーキンスによる痛烈な宗教批判。ポストモダン哲学を批判したアラン・ソーカルの「知の欺瞞」のように、宗教的思想、特に科学を否定する立場を執拗に攻撃していくところは非常に小気味が良い(ポストモダン哲学に対しては、ドーキンス自身も「悪魔に仕える牧師」では同様の批判を展開している)。
宗教的な原理主義者を批判するドーキンス自身も無神論原理主義者ではないかと批判されているそうだが、ドーキンス自身はこれを明確に否定する。宗教的な原理主義では聖典のみを絶対的に信じ思考停止状態に陥っているのに対し、科学的アプローチでは反証するような証拠が出てくればいつでも思考を変えることができる、というのである。実際、本書の中でも100% 神は存在しない、といっているわけではない。科学的に見て限りなくその可能性が低い、といっているだけなのだ。つまりドーキンスが信じるのは無神論ではなく、証拠の積み重ねによる事実の探求のみだ。結局のところ彼は筋金入りの科学原理主義者といえるのではないだろうか。 (YS / 2007-07-14)
読み始めて思った。ドーキンスさん本気やで。ドーキンスは本書で真っ向から宗教を否定している。
一割程読んだところでは、「いくら論破しても、原理主義者さんが、この本を読んで宗教から離脱することはないのに」と少々痛々しい思いであった。しかし、西欧社会で無神論者と名乗ることの社会的困難さを理解するにつけ、本書がそれらの人々を支援するために絶大な力を発揮することが分かって来た。ドーキンスは極めて冷静にかつ徹底的に宗教の罪を告発し、宗教への弁護を論破する。私のような無神論者に取っては胸のすく思いをするとともに、自分の認識が甘さに反省させられた。 原理主義者になる人の中には、不用意に信徒と論争を始めて、取り込まれる人も少なくない。教会側だって必死で、宗教の理論武装は半端ではない。こちらも、論争をする前にしっかりした理論武装をする必要があるのだ。そのバックグラウンドをしっかりと作ってくれる本としても極め重要だ。ほとんどの科学者は、宗教者との論争があまりに不毛なので、バカバカしくて放り出してしまう。いくら論破しても決して負けたと言わない、いわば、いくらゴールに蹴り込んでも入ったと認めない連中を相手にサッカーをやってるようなものだからだ。従って、こちら側の論拠をこのようにまとめた書は貴重で、しかも、ダーウィニズムをもっとも深く理解しているドーキンスの理論は強力な武器だ。もちろん、敵は決して負けたとは言わないだろう。しかし、観客にはどちらが勝ちかがはっきり分かる。そして、重要なのは、観客をあちら側に行かせないことなのである。 某大国の大統領の不用意な行動で原理主義が広がりつつある現代で、神でなく理性をよりどころに生きようとする人々の理論的支柱となる書である。強く推薦します。(shibchin / 2007-11-06)
多くの良識ある人たちが、宗教家の鼻持ちならぬ傲慢さに我慢のならぬ思いをしながら、彼らの暴力主義を恐れて大声では言わずにいたことを、明快に暴いた一冊である。まずは、ドーキンス氏の勇気に拍手を送りたい。
しかし「神はほとんど確実に存在しない」という彼の言い方は少し奇妙である。怪獣が恐竜を模した想像上の動物である如く、神はヒトを模した想像上の動物であり、その種類も勝手にいくらでも創作できるという意味で無制限に多種多様であるから、一括してその存在の有無を論じても意味がないと思う。存在するという積極的根拠がなければ、存在しないと考えるのが妥当である。 問題は、神が存在するかしないかではなくて、宗教家がそういう想像上の動物を自分たちの手前勝手な主張の権威づけに用い、詐欺、脅迫、暴力の責任をそれに転嫁するところにあるのではなかろうか。ドーキンス氏は、イスラム教原理主義に匹敵する、キリスト教原理主義の恐ろしさを克明に描いている。このような話は日本ではあまり知られていないので、一読してみるのがよいであろう。(場野量子 / 2007-09-10)
が全編に渡って語られる。そしてドーキンスの痛烈な宗教批判が今まで以上に熱烈に繰り返される。
ついつい一神教になじみのない私は宗教(や信仰)の暴走に顔をしかめてしまう。 でもそれに騙されてはいけない。対岸の火事と思ってはいけない。 ほとんどの部分で一神教批判が繰り返されるのでつい忘れてしまうが、 ドーキンスは「全ての超自然主義を攻撃している」のだ。 たしかに日本では政治活動を盛んに行う教団は某学会くらいしか思いつかないし、 我々の生活や価値観を縛るような宗教的戒律もほとんど無いが、 日本人の多くが無信仰的なのは、理性と熟慮によってそれを選択したからではないハズ。 迷信や伝統の影響を受け、漠然とした神の存在を信じている人は少なくないと思う。 もう一度そのような価値観、宗教観、合理的な物の考え方を見直すのに役立つ。 後半は子供に対する宗教教育の害について。 ここでも大人の立場から見ても、伝統や迷信とのつきあい方として考えさせられる物があるし、 子育てに一つの指針を与えてもくれると思う。 全体的に重い話題で気軽に読める物ではないが、今までドーキンスを読んだことのない人にもお勧めしたい。 (ちなみに生物学的な話題はほんの少しだけ)(げるやん / 2007-05-28)
実績的にも文句なしの世界的に著名な科学者が、まったく空気を読まずに神をフルボッコにする本。……という説明は不要なんだろうなぁ、けっこう売れてるみたいだし。
この本の目的は有神論者を無神論に転向させることではなくて(そういう人たちはそもそも本書を手に取りもしないだろう)、信仰を持つことが当たり前とされているような土地で虐げられている無神論者たちに対して強い味方がいることを知らしめることだ。ようするにアメリカとか、イスラム圏の国々に住む無神論者が読むととても勇気付けられる。なにしろ彼らは孤立しているので。でも日本でもよく読まれてるのは不思議だね。誰が読むんだろ。 ま、そんなに堅苦しい本じゃなくて、なにしろ「銀河ヒッチハイクガイド」の引用から始まってるんだから、(少なくとも日本では)肩の力を抜いて読めばいいんじゃないかな。 (ただただし / 2008-03-26)
宗教というトピックにドーキンス氏やアメリカ市民ほど危なっかしくない立場から自由に鑑賞できる(その分だけその重みに無自覚に喋れる)日本人として、彼の議論を「堪能」はできた。ただ、大方のレヴュアーの方が本書に好意的な見解を寄せている(私も部分的かつ心情的には同じ)が、宗教を議論する際には肯定派も否定派もできるだけこのような「熱狂」から距離を取っておくべきだと思うゆえ、あえて批判的な意見を述べさせてもらいたい。
(A)まず本書全体を通して感じた問題点として 進化論的観点から見た宗教発生学、とも言うべき「記述的」議論(第五章)と、宗教の弊害を批判する「価値判断」の議論(それ以降の章)とが食い違うのではないか。つまり宗教がミーム進化の上で十分起こりうる「副産物」であるという理解と、宗教そのものにメリットはない、という主張が重なり合わないのだ。更に言うならば、後者の価値判断の議論においても、ドーキンス氏の持ち出す状況証拠が否定的なものばかり(当然彼の主張としては必要な証拠であることには違いないが)である点が気になってくる。その宗教批判の根拠として持ち出すのが聖書の非道徳的な記述の「一部」や宗教教育の悲しむべき帰結の「一部」であり、そういった「弊害」が現代の世界で悲惨なものであるのは否定できないにしても、彼の言う「ミームの進化過程の中で生まれた」宗教にもなんらかの「人類が生き残っていくための方便」としての機能があるという見解はどのように正当化するのだろう。したがって宗教そのものを害悪として捉える(部分を全体と取り違える)錯誤にはまることなく、彼自身の土俵である進化論の枠に留まった上で「なぜそれが社会的利点を生み出しながら大きくなったと同時に、かつその一部の妄信的側面が肥大化して人間精神へ悪影響を持つようになったのか」を議論の俎上に載せ、宗教の限界と効用を同時に見据えながら現在の世界中の宗教的対立への処方箋を提示する必要があったのではないか。でない限り彼の議論は「毒には毒で制す」的な発想による劇薬効果以上のものにはなりえないのではないか、という気がする。その意味でドーキンス氏にもう少し持っていてもらいたかったのは、宗教社会学な観点である。 ドーキンス氏の方法はやはり現状のアメリカや世界中の宗教的対立がもたらした悲劇や見えない圧力への「倫理的身構え」であり、その意味でセンセーショナルな力を持つのは確かだとしても、宗教と付き合うことを政治的文脈ぬきで行なうことはできないものかというしこりを感じて読み終えた。 (B)個別の点で気になった点としては ・デザイン論証の無限遡及が神の存在証明を突き崩してしまうとされている(235)が、例えば自然界に見出される数学的配列をどう説明するか。巻貝における黄金比、天体運動の計量的パターン、虹のスペクトルといった、神の存在を土台にしなくとも単に我々が「美しい」と言って大丈夫(だと思える)現象が存在していることを、どう説明するのだろうか。ドーキンスはデザイン論証を人格化(キリスト教的文脈の中で)しすぎているのではないか。 ・文学教育から宗教的教育をとり除くことが妥当だという主張(第九章)も、美的教養の点で果たして正解か、という疑問が残る(芸術と宗教と道徳の問題)。キルケゴールが考えたように、美的生き方が宗教的生き方を介在させて倫理的に高められうるとすれば、宗教もまた(子供教育における童話のようにやがて捨てられるべき一過性のものだとしても)「ひとまず」教育段階で取り入れてもいい題材ではないかという気もする。もちろんドーキンスが言うように子ども自身が成長してその妥当性を自身の頭で判断できないほどのドグマティックな教化は避けるべきだとしても。 (m / 2008-12-28)
550ページもある大作ですが、その主張はタイトルに要約されています。宗教が人類にとって有害であることを、様々な面から繰り返し述べています。多くの日本人は、「宗教が迷信であるのは当然じゃないか」と思うかもしれません。しかし、世界中に非合理的な教えを文字通りに信じる人がたくさんいるし、宗教が憎悪と対立と争いを惹き起こしているのは事実です。
その、子供時代に刷り込まれなかった理性からすれば当然の「宗教は迷信である」ということを、ドーキンスは延々と読者に説得します。彼の論理は核心を衝いており衝撃的で、ユーモアも織り込み面白い一冊になっています。それで、世界中で大きな反響を呼んでいるのでしょう。 しかし、ドーキンスはこの本によってユダヤ・キリスト・イスラムのどの宗教団体からも命を狙われておかしくないと思いました。もし読者が信者であれば、必ず信仰に疑問を抱かせる力を本書は持っているからです。だから本書を出版したドーキンスの勇気は素晴らしいものです。今後も彼の命がけの活動が続くことを期待します。(景欧ボーイ / 2009-10-04)
ドーキンスが、くだくだと神の不存在について書いているのを多くの日本人は笑うのでしょうが、笑ってばかりもいられません。
日本人は、信仰の他にも沢山の思考停止の装置を持っているのですから。 根本敬は、「日本はヤンキーとファンシーで出来ている。」と言ったそうですが、最近はこれに「スピリチュアル」も加えた方が良さそうです。 反骨風の集団への依存、「かわいい」一点張りの価値基準、全ての事象は霊的なものと関係があるという最近のテレビ番組の流行。 日本にもドーキンスの様なドン・キホーテが必要なのかも知れません。(デビルマン / 2007-06-13) レビュー数 48 [残りも全部見る][amazonでレビューを書く] 平均点:4.0 |
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