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鏡【デジタル完全復元版】 [DVD] / レビュー総評点:-44
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ASIN:B0002B575A / 売上順位:7913
アイ・ヴィ・シー(2004-07-25)マルガリータ・テレホワ/脚本:アレクサンドル・ミシャーリャン ¥ 3,624
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レビュー総評点:
-44
以前ivcで販売しているタルコフスキーのDVDを買って
画質の悪さにがっくり来ましたが、 今回デジタルリマスターと銘打っていたので 買ってみました。 画質は、まあギリギリ見れるレベルと言えるでしょうか。 でもかつてあちこちの映画館で再上映されていた映像と比較すると、 年月が経過して段々色彩が劣化しているのは明らかです。 経年劣化は致し方のないこととはいえ、 映像の美しさが身の上のタルコフスキーの映画として考えると、 やはり悲しいことです。 IVCのノスタルジアもそうでしたが、 場面によって遜色の度合いがあるようで、 例えばラストシーンも、多分午後から夕方くらいだとは思うのですが、 空の色を見ると撮影当初より恐らく赤みかかっているのではないでしょうか。 久しぶりにもう一度この映画をみて、 自由度の高さに驚きました。 まったく、いつの時代のどこの国の映画であるかなどと 考える必要は無いように思います。 ボーナストラックのインタビューでヤブリンスキーも言ってますが、 体制が崩壊しても創造的な作品が出てくるということはないわけで、 資本主義国家であっても精神的な面での妥協や才能の上での凡庸さは、 免れることは出来ません。 鏡は、後の作品と較べると、ストップモーションもあり、 頻繁な場面転換ありで、いわゆる長回し多用一辺倒ではないですが、 今改めてみても決して古臭くなく、勢いのようなものがあると思います。 印象的なイメージがたくさん出現するというのに、 タルコフスキーだけがイメージビデオ風の映画にはならないのは、 やはり不思議です。(lucky_dog / 2007-11-04)
よく論評として言われているように、タルコフスキーの自伝なので彼にしか分からないのかもしれませんし、分からないので映像的な美しさを伝えるしかないのかもしえません。母や父に対する思いや自分の子供に対する思いは本人にしかわからないと思いますが、、、僕は「言葉で縛られた魂の解放」をテーマにしているような気がします。冒頭の吃りの子供が催眠術で治り、「何でも喋れるようになる。」こと、それに続く「植物も感じたり記憶したり理解したりできるが、人はくだらないことを喋る。言葉なんかでは気持ちが表現できない。」その後の母の記憶の中での「活字の間違い。」を気にして印刷所に駆け込むシーン。たぶんこのようなシーンが意味することは、言葉からの魂の解放だと感じます。感じることが大切であると、、、。だから、彼は映像詩で表現しているのだろうと思います。この映画の核は、決して単なる彼の自伝や幼い頃の記憶を見せて、彼の自伝記憶を伝えたいのではないのだと思います。言いたいのは、「言葉」だけでは意味をなさず、情報量の多い「映像」でこそ、感じるものを創れるという彼のマニフェスト(宣言)なのではないでしょうか。簡単に言うと「キレイな夕焼け」と言葉で表現するのは全く意味をなさず、その夕焼けを見せて、色や風や温度やすべてを見る側に委ねるというようなことでしょうか。映画には、いろいろな評論で言われているように、無論、自伝的な隠喩も隠されており、キリスト教と共産主義そしてブルジョアとの狭間、中国の革命やヒットラーの死体や原爆を見せることで、生きるということが家族や人間関係だけではなく社会的な影響を多大に受けるということ、彼の共産主義からの亡命を仄めかすところや、自分は頑固だったことなど個人的性格を表現しているところもあります。しかし、僕はやはりなんといっても、「言葉」という皮肉にも人にしか備わっていない高度なコミニュケーション方法から、「伝えたいこと」=「その映画のコアアイデア」=「魂」を解放する、彼の宣言映画に見えてなりません。そのアイコンとして十字架というビジュアルも存在するのだと思います。十字架の意味することは、たぶん、「言葉にされた教義」ではなく、絶対的な神の存在を感じることや、祈ることを視覚化したのだと思います。
意味論はこれぐらいにして、、映像はとにかく美しい詩でした。学生の頃は眠くなりましたが、、現在は僕にとって、非常に目が冴えわたる映画です。たぶん映画館が暗かったから?(笑)(amaterasulover / 2008-04-01)
岩波ホールで上映されたのは70年代末だったと思いますが、それ以来ぴあで上映が告げられると必ず見に行っていた映画。たぶん映画館で10回以上見たでしょう。映像詩という言い方をされますが、現在の「私」を取り巻く現実が、夢や記憶や想像に影響を与えながら展開していくので、それを解きほぐしながら見ることができる映画だと思います。あまり「謎解き」のように見られることはタルコフスキーの本位ではないかもしれませんが。特にラスト、ベッドにふせっている「私」が、「どうにかなるさ」と言いながら死んだ雀を上に放り投げると、雀(想い)は故郷に帰っていき、同時にバッハのヨハネ受難曲が響いてくるシーン。今思い出しながらも目頭が熱くなります。「私」は、母や妻、子どもをめぐる人生の煩わしさや自分の病気に心身共にボロボロな状態なのでしょう。実際の人生では「どうにかなるさ」なんて、どうにもなりゃしないものです。でも、映画のなかでならそれが可能なのですね。そういう意味で、タルコフスキーってなんと幸せな人だったんだろうと思います。実は このDVDはまだ持っていませんが、今から注文します。星はDVDの評価ではなく、この映画に対する私の思いから星5つにしました。(カッタルコフスキー / 2005-05-24)
この作品は、アンドレイ・タルコフスキーのもっとも自伝的かつ個人的な作品であると同時に、世界平和をも志向したダイナミックな視点をもっているところが魅力。一見、他人からすれば無秩序に並べられている主人公の過去、現在、未来そして夢の映像も主人公の心の中では脈々とつながって生起したイメージであろう。
見終わってから、タルコフスキーは本気で世界中の人が平和や幸せになることを祈れば、それが訪れると信じていたのではないかと思った。タルコフスキーはしばしばお手軽に映像詩人と称されるけれど、本当は映像を使って世界で始めて祈祷をした人と位置づけるほうがふさわしいのではないかと思った。 作品の根源にある感情は、絶望であると思う。ただ、この作品は絶望的な状況にありながら希望が訪れることを切望している、その望むという行為の力強さに感動させられる。 最後に、私が感じたタルコフスキーの作家としての限界。タルコフスキーは物事を突き放して捉えることがあまり得意ではない。自分の内側にある感情を、自分のこととして表現することに長けていたと思う。それがゆえに、彼はコメディーが撮れなかった。決して、作品を貶める意図を持って、この段落を書いているわけではないけれど、映画という大きな世界の中でタルコフスキーがどこに住んでいるのか、漠然なりとも位置づける試みが必要だと思ったから。 とても漠然として、あいまいなレビューになってしまったけれど、こればかりは見るしかない。(ajax / 2008-04-11)
アンドレイ・タルコフスキー監督の自伝的映像詩である。映画は、作者である「私」による一人称形式で進行し「私」が胸に秘めている母への思いや、別れた妻や息子との間に織りなされる感情を意織下の過去と現実を交錯させながら浮かびあがらせていく……。
このモノローグは、誰なのか初めて観たときにはわからなかったが、二度観たとき「私」であることがわかり、これで難解と言われる作品にかろうじてついていくことができた。タルコフスキー独特の巧みな演出は、木立を抜ける風のそよぎにも人間の心象を映し出して見せると言われてきた。この作品でも、「水」や「火」といった自然現象がこの監督独自の映像となって、美しい幻想的なイメージのなかに繊細かつ鮮明に語りあげている。意識下の過去と現実を巧みに交錯させて作者の深層心理を浮き彫りにしてゆく。 私の夢に現われる母。それは、40数年前に私が生まれた祖父の家。うっそうと茂る立木に囲まれた家の中で、母はたらいに水を入れ髪を洗っている。鏡に映った、水にしたたる母の長い髪が揺れている。あれは1935年田舎の干し草置場で火事があった日のこと。その年から父は家からいなくなった。 私は突然の母からの電話で夢から覚め、エリザヴェータが死んだことを知らされた。彼女は、母がセルポフカ印刷所で働いていた頃の同僚だった。 両親と同様、私も妻ナタリアと別れた。妻は、私が自信過剰で人と折り合いが悪いと非難し、息子イグナートも渡さないと頑張っている。妻のもとにいるイグナートのことは、同じような境遇にあった自らの幼い日を思い出させる。赤毛の、唇がいつも乾いて荒れていた初恋の女の子のこと。同級生達と受けた軍事教練のこと。それは戦争と、そして戦後の苦難の時代でもあった。 そして、哀れだった母のこと。大戦中、疎開先のユリヴェツにいた時、母に連れられて遠方の祖父の知人を訪ねて、宝石を売りに行ったのだ。 母の負担になったかもしれない自分の少年の日々のことを思うと、私の胸は疾く。イグナートが同じ境遇をたどっているのかも知れないと思うと、さらに私を苦しめる……。 私の母と別れたナタリアの顔が酷似しているとナタリアに言い続ける。そこで「鏡」が登場してくる。そこに映し出された顔をナタリアは見るシーン。(これは一人二役である)「鏡」は現実(当時)から過去へと行きつ戻りつつする橋渡しのように思える。 また、知人を尋ねて宝石を売りに行ったとき、気をきかせて、婦人はニワトリを1羽つぶし持って行かせようとする。身重の婦人は母につぶすように命じるシーン。羽が舞い上がり、宙に浮いた母の姿。 難解と言われる作品だが、次々に押し寄せてくるぞっとするほど美しい映像の数々に身を委ねながら、タルコフスキーの「映像の詩学」の深みに降りていくのは快楽だ。( / 2004-12-29)
自分が子供の頃のまだ母親が若かったときの記憶。この映画に何かすごく郷愁を憶えるのは、その記憶に共鳴するものがあるからなのだと思う。草原を吹く風や燃える小屋、いろいろと理屈をつけることもできるだろうが、理屈ぬきで映像に共感することがこの映画を楽しむにはいい。唯、映像をそのまま受け入れることが心地よい映画です。
このDVD、デジタルニューマスターということで綺麗です。(映画館で観たときには、もっと草原や林の緑とモノクロが鮮やかだった印象があるのですが、自分に中で多分に美化されていたようです)特典映像はタルコフスキーという観点のものはありません。映画に関係した人の映像を集めたといった感じです。今回、DVDで見直して特に印象に残ったのが母親・妻の2役?を演じた女優さんのなんとも言えない表情に強く惹かれたことです。タルコフスキーの心情を見事に表現しているのではないかと思いました。(fwiw6180 / 2004-08-22)
草原を吹き抜けていく風
水の表現力について言及されることの多いタルコフスキーですがこの作品においてはなんと言ってもこの風でしょう。このような絵を撮れる人がいたことにただただ感謝するばかりです。私の場合、この作品を何度も見るのはこのカット見たさというのが大部分を占めます。 DVDの映像に満足がいかずたいていはビデオで映画は見ますが、この賞品にはとても満足できました。ぜひコレクションに加えて何度でもこの幻想の世界に酔いしれましょう!(studio YS / 2006-08-05)
「僕の村は戦場だった」を見て、その繊細かつ鮮烈な映像と、悲劇でありながら、
ラストシーンの眩しい美しさに、このロシアの監督の非凡な才能を感じた。 それから、岩波ホールで「鏡」を見ることとなる。 「ぼくの・・」は物語を追うことができたが、「鏡」はまったく異質の映画だった。 主人公の意識の具象化のように、過去のさまざまな記憶の像が、戦時下の ドキュメントフィルムと混じりながら、表出する作りで、長く引き伸ばされた 実験映画をみるような印象・・・全体が茫漠として、時おりバッハが響き渡り、 はっと息を呑むような映像に身体の芯まで浸かるような感じであった。 だが、睡魔にも襲われたのだった・・・。 見終わったその日の夜。 一体何の映画だったのだ、という想いをひきずったまま寝床に・・。 すると、何度も映画の場面が脳裏に蘇っては消えるということの繰りかえしで 寝つけなくなってしまった。「鏡」の世界に身も心も捕らわれてしまったのである。 数日後にもう1度「鏡」を見て、やっと、五感と直感と霊感(?)で 「わかった」のであった。そう、これは体感しなければならない「体験コーナー」の ようなもの。視覚と聴覚を先入観なしにひたすら映画にゆだね、時おり朗読される 詩の言葉を頼りに、悔い、思い出、喜び、悲嘆、憎悪、希望、夢などのねじれ、 混ぜ込まれた、様々な記憶の深い底に落ち、再び、浮上して、昇華していく、 言い換えると、この世の悲嘆と苦しみから解放され、楽園を夢見る・・そのための 映画なのだ。 だから、うっかりすると、その底にはまって漂い、ついに浮上できなくなる 危険な体験でもあるのだ。 私は、いまだこれを超える映像体験をしたことはない。2度は見ることをお勧めします。 1度では、記憶の淵に佇むだけで終わってしまうでしょうから。 (天と地を行き交う男 / 2007-02-27)
人間には、子供の頃の思ひ出を大切にする人と、しない人が居る。その違いは、すぐに分かる。そんな前者の一人が、タルコフスキーである。
この映画は、タルコフスキーが、自分と自分の家族の過去と思はれる情景をオムニバス風に描いた私的映画である。その中に、スターリン時代における印刷所で、誤植をしたのではないかと怯えて職場に向かふ女性の逸話、第二次世界大戦中の銃後の市民生活、中ソ国境紛争のニュース映像など、ソ連現代史の様々な場面の映像が挿入されて居る。物語ではない。記憶の断片なのである。(1970年代に、黒澤明監督が、この映画について、子供の頃の記憶はこの様な物で、そう思って見れば、こんな分かり易い映画は無い、と言った意味の評を新聞紙上に書いて居た事が印象に残って居る)又、そうした映画の所々で、タルコフスキーの父である詩人アルセニー・タルコフスキーの詩の朗読が挿入されるのも印象的である。 私は、特に、この映画のラスト・シーンが好きである。野を横切り家に帰ろうとする子供たち。その野を横切る子供たちの光景と共に流れるヨハネ受難曲の冒頭の音楽。−−子供の頃の思ひ出は、何故、こんなに美しいのだろうか? (西岡昌紀・内科医/タルコフスキーの20回目の命日に)(西岡昌紀 / 2006-12-29)
とにかく映像美にまず圧倒されます。静かで重厚で叙情的な主人公の生活(過去と現在の交錯する)描写
。心の最も深い部分から映像を媒介にイメージがわきあがってきます。 そして何より終盤の表現がすごい。映画でしか出来ない表現です。 畳み掛けるような(適切な表現が思いつかず、このような言い方になってしまいますが)鏡の表現。これには圧倒の一言です。映画の一つの表現の仕方の極み(私は感動のあまり、しばらくうまく喋れなくなったほどです)。是非手元においておきたい作品です。(フランス好き / 2006-05-16)
タルコフスキーの作品の中でも もっとも物語性が薄く 従い もっとも映像美に訴えてくる作品。物語がない分 見る人に解釈の自由を齎し 結果として 「最も好きなタルコフスキー映画」であると 多くの人に言わせる傑作だ。
風、雨、火、土、草 この映画の主役は彼らである。我々が普段見慣れている「彼ら」が タルコフスキーの手に掛かると 驚くほどの 艶かしさと 美しさを帯びてくる。 しかも 「この風景は かつて見た事があるな」という既視感を伴う点で 「親近感」すら覚える。 実際にタルコフスキーが描き出す風景を僕らが見たかどうかは この際関係ない。大事なのは 僕らが心の中に持っている 風、雨、火、土、草をタルコフスキーが 掬い上げている点にある。その意味で 人によっては この映画は「自分探し」の体験になるのではないだろうか。 タルコフスキーは寡作な映像詩人だった。旧ソ連で 製作や公開も ままならない時期も長かったと聞く。彼が夭折した今から見て そんな彼の不遇の時期は 20世紀の映画芸術にとっても 不幸だったと思う一方、 そんな不遇が 彼の異常な集中力を生み出し 結果として 寡作ながらも 見事な傑作作品群を生んだのかもしれない。 彼の没後20年近くなった今 僕らは そう自分を慰めるしかないのかもしれない。(くにたち蟄居日記 / 2006-11-14) レビュー数 11 [amazonでレビューを書く] 平均点:5.0 |
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