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「神は妄想である―宗教との決別」 とその関連商品
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神は妄想である―宗教との決別
ASIN:4152088265早川書房(2007-05-25) 翻訳:垂水 雄二/リチャード・ドーキンス 売上順位:22684 ¥ 2,625(中古:¥ 1,997) |
他の方の書いたレビューを見てみると、感想が真っ二つに割れていますね。
見ているだけでもおもしろいのですが、私はこの本を読んでチョー感動!した派の視点から、 レビューを書いてみようと思います。 本書の前半の議論は、「神がいるかどうか証明する事はできない(と思われる)けど、 その蓋然性はどうなの?」というところから始まります。 しかし、ないものは無い、ということを証明するのは困難です。 そこで、本書ではイエス/ノーで議論するのではなく、「神はいるっぽいのか、いないっぽいのか」の話をします。 もちろんタイトルからもわかるように、本書の主張は「いないっぽい」ということなのですが。 ということで、前半の内容だけにとらわれてしまうと、 「痛快!」だとか、「くだらねー!」といった感想を持ち、それで終ってしまう可能性があります。 しかし、これには注意しなくてはなりません。 なぜなら、これがドーキンスのもっとも主張したいことではない(と思われる)からです。 本書のオビには「あのドーキンスがなぜここまでむきになるのか」とあります。 ドーキンスがこのような大著を上梓した意義というのは、まさにここにあるのです。 科学が何らかの現象を数学的に記述しただけのものであるとするなら、それは一見したところ無機質に見えるかもしれません。 しかし、それはとても深遠で、まだわからないことだらけだから、人はそれをもっと知りたいなと思う。 論理的に記述された、自然現象の数々。人はそれを眺めているだけでも感動できるし、 十分満たされた気持ちになります。こうして人は科学を知り、自然を知り、やがて人間のことを知るようになるわけです。 ユネスコ憲章にもありますが、人は自分以外の人間、つまり相手のことをよく知ることで、 憎しみの根源すらも絶つことができるのではないでしょうか。そういった意味で、 子供達には宗教を教えるよりも、科学を教えるほうが、相互理解の点においても、よいことなのではないか。 ドーキンスの主張を聞いていて、私はそう思ったのです。 しかし、宗教が存在することで、文化的な衝突の種がまかれてしまったり、科学への好奇心が阻まれてしまうという実態がある。 阻むどころか、それを知ろうとする事自体が許されないという現実。 科学者であり、ダーウィニストのドーキンスは、特に批判の矢面に立っていたに違いありません。 この世界を、どうしたらもうちょっと良くできるのか。ドーキンスは、この答えを本書に綴っています。 読むべし。名著です。 (nextlevel_man/2008-02-02) 神は妄想、世界一の無神論者王国の住人からみれば当たり前以前の常識を、科学界のスターにしてスポークスパースン、ドーキンスがここまでの字数を費やしてまで書かなければならないということが、欧米人を我々が多少なりとも理解しようとするときの困難さを象徴しているかのようだ。中東に民主主義を、なんて舌の音が乾かないうちに、いみじくもブッシュが「現代の十字軍、、」と洩らしたように、イラク戦争は継続中の宗教戦争なのだから、いまや日本人にとっても、神も宗教も人事ではない。普通、科学者はこの種の問題には、どんな角度からであろうと、触れることさえ嫌がるものだ。ドーキンスの蛮勇?いや、男気に拍手を送りたい。翻訳もいいのだろうが、読み物としても面白い。
(ゴン/2008-02-03)
ドーキンスが妄想だとターゲットとしている神とは、主にユダヤ教、キリスト教、
イスラム教といったアブラハム宗教の神です。彼はこの3大宗教を全篇にわたり 手厳しく批判を繰り広げています。あまりの手厳しさに対する読者の疑問のために 「なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?」といった章まで用意されています。 批判の論調も科学者らしく論理的で隙がありません。意地悪で皮肉に満ちている のは原本に忠実にという訳者の功績でしょう。 端から見ていてもアメリカのキリスト教原理主義にはイスラム教原理主義と同様に 困惑する事が多いのですが、こんな精神構造になっているのかと納得がいきました。 現在、アメリカの政治は票田としてのキリスト教会、資金源としてのユダヤ ロービーストにがんじがらめになり、常識的な意思決定ができない状態にあるのでしょう。 本書がアメリカでアマゾンの売り上げトップ10に入り、730通の書評が集まっていることから、 多くのアメリカ知識人は頭では分かっているのではと期待してしまいます。 しかし、教義が物心ついたときから恐怖心を利用して刷り込まれるため、 無神論者になるとカミングアウトすると、私たちの想像を絶するほどの疎外感や 孤独感を味あわなければならないのでしょう。 現状打破に対する提案も盛り込まれており、クリスチャンでない私としては 至極真っ当なことを主張している感じる内容でした。 (Coffey man/2007-12-26) 何かとお騒がせのドーキンス氏ですが、今回は生物学会ではなく、宗教全体を相手に回し、歯に衣着せぬ攻撃を繰り広げています。
もちろんこれは、彼が進化論を専門としているため、創造論などの教義と対立し攻撃を受けるからであり、すでに『悪魔に使える牧師』などで宗教批判を展開していました。 今回は邦訳で550ページになる大冊で、これでもかこれでもかと無神論の優位を主張し、相手がキリスト教、イスラム教に限らず、また原理主義だけを相手とせず中庸派、穏健派も含めて相手取っています。 その理由は<第8章 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?>と<第9章 子供の虐待と、宗教からの逃走>に明言されています。 p448 「宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちはオサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。ではどうすればいいのか、といえば、こうして力説する必要もないほど自明なことだが、宗教上の信念というのものをフリーパスで尊重するという原則を放棄することである。それこそが、私がもてるかぎりの力をつくして、いわゆる「過激主義的な」信仰に対してだけでなく、信仰そのものに対して人々に警告を発する理由の一つなのである。」 もちろん、神の存在証明に対する反論や、道徳面からの宗教の必要性の有無など、宗教側からの攻撃(脅迫メールなどが掲載されていますが、信仰者からのものとは思えないほどグロテスクなものです)に対する緻密な反証にも多くのページが割かれており、最新の関係書籍からの引用も多いのでとても参考になります。 (この方面の引用では、バートランド・ラッセルのものは唸らされる秀逸ものがたくさんありました。アインシュタイン、カール・セーガンなどの言葉も深みがあり感動) "アンチ・トンデモ"の最強版のような一冊ですし、信仰を持つ人々からすればはらわたが煮えくり返るようなところがあるでしょうが、ドーキンス氏はけっして人間否定でも科学万能主義でもなく、蒙を啓き限界を押し上げて、人間の歴史をより豊かにすること、そのために子供たちの精神を大事にすることを、心から願っているのだと思います。 (Tack/2007-10-24) 「利己的遺伝子」であまりにも有名なドーキンス。この本では、真っ向から神、宗教を取り上げる。進化や遺伝子という言葉で人間社会までも説明し続けてきた著者は、これまでもその説の中で神を否定する発言をしてきた。この本では、なぜここまでと思うほど執拗に、過激な言葉を使って宗教を否定する。なんだか著者の身の危険を心配してしまうほどの熱さをもった本である。
解説にも触れられているが、この熱さは、昨今の宗教が表に現われた世界的な戦いの危惧も念頭にあるからだろう。内容としては「創造主なしでこの世界が説明できるか」といった著者の専門、進化生物学に関係したものからはじめ、更に踏み込んで宗教や徳の起源「神がなくても人は善を行えるのか」といった問題まで進化から説明していく。「神なしでも徳はある」、「徳も進化で説明できる」という姿勢は、マット・リドレー「徳の起源 他人をおもいやる遺伝子」 やダニエル・C.デネット 「自由は進化する 」 と共通である。 取り上げられている反証のための例は主に一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)に関したものであるが、著者をはじめとする無神論者への罵倒などは、それこそスピノザの時代にもあったことなのだが、現代でもこれほどまでの「信じ方」があるのか、と思われるものがけっこうある。かなり最近のニュースなどもとりあげられている。一つの一神教が大勢を占めているところではそうなってしまうのか、とも感じる。 宗教に対してのかなり過激、執拗な書き方に、へきえきとする読者もでるとおもう。しかし最終章(第10章)を読むと、著者の言いたいことが少し冷静な形でみえてくる気がするので、とりあえず読み通せないようにおもったら、最終章にざっと目を通してみるとよいかもしれない。「巨大なブルカ」と題された最終章の最後の文章は、人間の今ある状況について、詩的とも言える厳しいが美しいイメージもくれるものだと思う。 人間が世界を理解し、社会を、思考を拡大してきたことに宗教は大きな役割を荷ってきたことは否定できない。しかし、そろそろ「神」なして理解できるところは神から離れてもいいのではないか。本書を読んで感じたのはそういうことである。神を信じていても、「神に頼らないで」きちんと生きればそれに越したことはないのではないか、とも言えるかもしれない。自分を頼らなくても立派にやっていく子供を喜ばない親はない。(そうでない親は子離れできていない)。人間は、そろそろ親元を離れてもいいころなのか。神からの親離れ。邦題には「宗教との決別」と厳しい言葉になっているが、この本はそんなメッセージである。 宗教家の冷静な反応を聞きたいと思う。 (patella/2007-08-28) ■ alcyonejunさんのレビューについて
「宇宙が何なのか、生命とは、意識とは何なのか、まだ何もわかっていない のです」というのは間違いです。少しは進化や天体について勉強してほしいも のです。「<すべてが分かっている>というわけではない」は本当です。しかし、 「何もわかっていない」というのは完全に勉強不足によるものです。 「神が存在しないことを証明するのは不可能」というのも、ドーキンス自身が 述べていることです。だからと言って、「不在を証明するのが不可能だから、 存在する」という議論(というよりは論理の飛躍)と、「(妖精のように) 人間が過去に勝手にでっちあげた概念なのだから、そんなものは存在しないと 仮定してもいい」という議論が同程度に正しいわけではない(そして科学の 発展は後者の議論を後押ししている)ということは理解したほうがよいでしょう。 汎神論的な神については、ドーキンスは否定していません。しかし、1章の ワインバーグの引用からもわかるように、「神」と言う言葉を一神教を信じる 人間が使う「神」と違う意味で使って混乱を招いて、無意味な議論に陥るという のがこの本について議論している人にありがちなので、気をつけたほうがいいで しょう。 1章を読まずに(あるいは、読むこともできずに)「タイトルが誤解を招く」と いうのも不当な評価です。こういう人達のためにドーキンスはわざわざ1章で 丁寧に「神」の定義について確認しているのに、本をタイトルと勝手な思い込み だけで判断する人にはやはり通じないのでしょうか。 ■ アブラさんのレビューについて 「著者は科学万能主義や、アメリカ的な自由・平等主義に関しては何も疑問を呈さ ずに絶対的な真実として語っています」とありますが、よく読んでください。そう いった価値観については、絶対的な言明は注意深く避けるような書き方になってい ます。 「しかし彼もまた(悪い意味で)アメリカ人である」という発言については一言だ け。 ドーキンスはイギリス人です。 (Bob/2007-10-18) 信仰だの宗教だのは、なぜ、破格の特別待遇なのだろう。信仰とさえいえば例外的に兵役をまのがれ(平和主義者というだけでは却下されるのに!)、教義だからという理由でさえあれば「同性愛者を殺せ!」というプリントのTシャツを着て登校する権利が認められてしまう。
信教の自由というものは、それほど強力であって良いという正当な理由があるだろうか? 答えは決まってる。ノーだ。 ドーキンスは、信仰周辺の話題に対する社会全体の過剰な甘やかしや「尊重」は、実のところ「尊重」ではなく、非常に多くの人が、そうとは気がつかないまま、ただ腫れもの扱いしているだけなのではないかと考える。なぜ腫れ物扱いなのだろうか。それはつまり、その欺瞞性を指摘することが、厄介なことになることを薄々気がついているからではないのか。ならば、内心では、欺瞞性があることを無意識的に理解しているからこそ、信仰への疑義を自覚したり、声にすることを恐れているのではないか?もしそれが事実ならば、隠れ無神論者や、自覚していない潜在的な無神論者が大勢いるはずだ。 どうしたらいい?ドーキンスは考える。 せめて、各自が胸を張って無神論者であることを自認することで、苦悩している隠れ無神論者や、潜在的な無神論者が、苦しむことのない社会にしようではないか。それが可能な時代の空気になっているはずだ。 そんなドーキンスの呼びかけは温かい。信仰と現実の折り合いがつかないことで、あなたが苦しむことはないんだ。信仰を捨てても、人は善良でいられるんだ。あなたには、誇り高く健全な無神論という選択肢もあるんだ、と。それはもはや、王の裸を指摘する無邪気な子供ではなく、理性的な大人が、勇気と覚悟をもって「王様は素っ裸だ!」と叫ぶ、誇り高い正直者の姿である。 なんて生真面目で愚直で泥臭くて、不器用なやつなんだろう。 だが、それがいい。 知的勇気と知的誠実さ(それは事実への誠実さに他ならない)を建前だけにせず、真っ正直に歩む道のりは、生真面目で愚直でストイックな道なのだから。 なお、本書において興味深く、意義のある議論はたくさんあるが、ひとつ挙げるならば、信仰が道徳の根拠であるという考えが、いかに醜悪でグロテスクか、そして、実は誰もそんなことは信じていないのだ、という論証である。これは見事で強力なので、一読の価値がある。 そういうわけで、本書は、ただの有神論批判というよりも遥かに深みがあることを強調したい。客観的かつ冷静に読めば、知的好奇心を刺激する話題も多く、事実に誠実であることがどうことかを実感できる誇らしく美しい名著なのだ。 (ワカシム/2008-03-19) ドーキンスによる痛烈な宗教批判。ポストモダン哲学を批判したアラン・ソーカルの「知の欺瞞」のように、宗教的思想、特に科学を否定する立場を執拗に攻撃していくところは非常に小気味が良い(ポストモダン哲学に対しては、ドーキンス自身も「悪魔に仕える牧師」では同様の批判を展開している)。
宗教的な原理主義者を批判するドーキンス自身も無神論原理主義者ではないかと批判されているそうだが、ドーキンス自身はこれを明確に否定する。宗教的な原理主義では聖典のみを絶対的に信じ思考停止状態に陥っているのに対し、科学的アプローチでは反証するような証拠が出てくればいつでも思考を変えることができる、というのである。実際、本書の中でも100% 神は存在しない、といっているわけではない。科学的に見て限りなくその可能性が低い、といっているだけなのだ。つまりドーキンスが信じるのは無神論ではなく、証拠の積み重ねによる事実の探求のみだ。結局のところ彼は筋金入りの科学原理主義者といえるのではないだろうか。 (YS/2007-07-14) 読み始めて思った。ドーキンスさん本気やで。ドーキンスは本書で真っ向から宗教を否定している。
一割程読んだところでは、「いくら論破しても、原理主義者さんが、この本を読んで宗教から離脱することはないのに」と少々痛々しい思いであった。しかし、西欧社会で無神論者と名乗ることの社会的困難さを理解するにつけ、本書がそれらの人々を支援するために絶大な力を発揮することが分かって来た。ドーキンスは極めて冷静にかつ徹底的に宗教の罪を告発し、宗教への弁護を論破する。私のような無神論者に取っては胸のすく思いをするとともに、自分の認識が甘さに反省させられた。 原理主義者になる人の中には、不用意に信徒と論争を始めて、取り込まれる人も少なくない。教会側だって必死で、宗教の理論武装は半端ではない。こちらも、論争をする前にしっかりした理論武装をする必要があるのだ。そのバックグラウンドをしっかりと作ってくれる本としても極め重要だ。ほとんどの科学者は、宗教者との論争があまりに不毛なので、バカバカしくて放り出してしまう。いくら論破しても決して負けたと言わない、いわば、いくらゴールに蹴り込んでも入ったと認めない連中を相手にサッカーをやってるようなものだからだ。従って、こちら側の論拠をこのようにまとめた書は貴重で、しかも、ダーウィニズムをもっとも深く理解しているドーキンスの理論は強力な武器だ。もちろん、敵は決して負けたとは言わないだろう。しかし、観客にはどちらが勝ちかがはっきり分かる。そして、重要なのは、観客をあちら側に行かせないことなのである。 某大国の大統領の不用意な行動で原理主義が広がりつつある現代で、神でなく理性をよりどころに生きようとする人々の理論的支柱となる書である。強く推薦します。 (shibchin/2007-11-06) 多くの良識ある人たちが、宗教家の鼻持ちならぬ傲慢さに我慢のならぬ思いをしながら、彼らの暴力主義を恐れて大声では言わずにいたことを、明快に暴いた一冊である。まずは、ドーキンス氏の勇気に拍手を送りたい。
しかし「神はほとんど確実に存在しない」という彼の言い方は少し奇妙である。怪獣が恐竜を模した想像上の動物である如く、神はヒトを模した想像上の動物であり、その種類も勝手にいくらでも創作できるという意味で無制限に多種多様であるから、一括してその存在の有無を論じても意味がないと思う。存在するという積極的根拠がなければ、存在しないと考えるのが妥当である。 問題は、神が存在するかしないかではなくて、宗教家がそういう想像上の動物を自分たちの手前勝手な主張の権威づけに用い、詐欺、脅迫、暴力の責任をそれに転嫁するところにあるのではなかろうか。ドーキンス氏は、イスラム教原理主義に匹敵する、キリスト教原理主義の恐ろしさを克明に描いている。このような話は日本ではあまり知られていないので、一読してみるのがよいであろう。 (場野量子/2007-09-10) が全編に渡って語られる。そしてドーキンスの痛烈な宗教批判が今まで以上に熱烈に繰り返される。
ついつい一神教になじみのない私は宗教(や信仰)の暴走に顔をしかめてしまう。 でもそれに騙されてはいけない。対岸の火事と思ってはいけない。 ほとんどの部分で一神教批判が繰り返されるのでつい忘れてしまうが、 ドーキンスは「全ての超自然主義を攻撃している」のだ。 たしかに日本では政治活動を盛んに行う教団は某学会くらいしか思いつかないし、 我々の生活や価値観を縛るような宗教的戒律もほとんど無いが、 日本人の多くが無信仰的なのは、理性と熟慮によってそれを選択したからではないハズ。 迷信や伝統の影響を受け、漠然とした神の存在を信じている人は少なくないと思う。 もう一度そのような価値観、宗教観、合理的な物の考え方を見直すのに役立つ。 後半は子供に対する宗教教育の害について。 ここでも大人の立場から見ても、伝統や迷信とのつきあい方として考えさせられる物があるし、 子育てに一つの指針を与えてもくれると思う。 全体的に重い話題で気軽に読める物ではないが、今までドーキンスを読んだことのない人にもお勧めしたい。 (ちなみに生物学的な話題はほんの少しだけ) (げるやん/2007-05-28) ドーキンスが、くだくだと神の不存在について書いているのを多くの日本人は笑うのでしょうが、笑ってばかりもいられません。
日本人は、信仰の他にも沢山の思考停止の装置を持っているのですから。 根本敬は、「日本はヤンキーとファンシーで出来ている。」と言ったそうですが、最近はこれに「スピリチュアル」も加えた方が良さそうです。 反骨風の集団への依存、「かわいい」一点張りの価値基準、全ての事象は霊的なものと関係があるという最近のテレビ番組の流行。 日本にもドーキンスの様なドン・キホーテが必要なのかも知れません。 (デビルマン/2007-06-13)
悲しみの底で。しかし、神はいない |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
個人的には読む前から神は存在しないと確信しているので、問題はない。ドーキンスは理路整然と「神はほぼ確実にいない」という論証を行なう。(絶対にいないことの証明は極めて難しい。いるとしたらこんなことになるから、あり得ない、と言うところまではいける。しかし。いえ、いるんですと見せられたら何も言えない。その可能性は限りなくゼロに近いが、ゼロではない。そういうレベル。)その後、宗教が冒して来た様々な愚行について冷静に指摘し、信仰の不毛さを訴える。そして冷静に思えばニューヨークで起きた事件にしてもその後の展開にしても、東京で起きたサリン事件にしても、信仰というものがなければ起きなかったことに気がつく。
しかし、何かの宗教に入信している人にとってはとんでもない本なんだろうなと思う。そういう人はこの本を「トンデモ本」のひとつとして無視するのだろう。できれば無視する前に読んでほしい。この議論にきっちりまともな返答ができるものならしてほしい(絶対にできない)。 この本をドーキンスが喜んで書いたとは思えない。様々な信仰に起源するテロの横行を聞きながら、だから宗教ではだめなんだよと悲しみにくれつつ、この本は書かれたんだと思う。だから文章が熱いのだ。本書の帯(あのドーキンスがなぜここまでむきになるのか?)は間違っている。ドーキンスはむきになってはいない。悲しんでいるのだ。 あ、この文章を書いている私は完全な無神論者です。神様なんて必要ないもの。(こう宣言してほしいとドーキンスが本書で言うので、わざわざ書いておきます。しかし日本では基本的に無意味な宣言だと思う。) (chiro128/2007-06-12) 神道、仏教といった宗教はあるものの、実際には無宗教に近い日本人から見れば、
何を今さらといったところだが、一神教の絶対神が科学的視点からは いかにありえないかを論理的に説いている。 本書を通してアメリカの宗教観を垣間見ることができる。 ダーウィンの進化論よりも神による創造論を大真面目に信じていたり、 政治家にとっては無神論者であることを告白することは政治生命の終わりを意味したり、 日本人の感覚からすれば滑稽ですらある。 しかし現実としてキリスト教対イスラム教の宗教戦争の様相を呈している 911同時テロやイラク戦争のような宗教戦争は現在進行形で世界各地で起こっている出来事で、 また一神教における神の存在を真剣に信じている人が世界中に大勢いることも事実。 宗教の弊害に著者は警笛を鳴らしている。いや、警笛というよりは怒りを覚えているようだ。 日本人は無宗教とよく言われるが、政権与党に宗教をバックボーンとした政党が居座っていたり、 最近のスピリチュアルブームだとか占い師面した某オバサンがテレビなどで大活躍していることを考えると、 そうそう胸を張って「科学的・論理的思考ができる」「非科学的な神を妄信などしない」などとはとても言えないのではないか。 ちょっとした気休めやお遊び以上に宗教や占い師にハマっている人にぜひ読んでもらいたい本だが、 そのような単純な思考の持ち主には本書はやや重たいかもしれない。文量・内容ともかなり読み応えのある本。 (ピグモン/2007-10-01) 神(仏でもいいです)の存在を前提に育てられたけど、どうもそこに居心地の悪さを感じている人向け啓蒙書。同時に、まわりを見渡して(紳士的であろうとするあまり)カミングアウトできない無神論者に対する檄文でもあります。ここで声を上げないとたいへんなことになる、という危機感からでしょうか、これまでになく強い筆致で宗教、神がいかに必要でないかを説いています。
32件のレビューうち参考になった順で15件までを表示しています。とは言え、宗教への一方的非難ではなく「神の存在の蓋然性」という観点から始まるあたりや、相変わらず燃えるような情熱と冷静な論理にユーモアも交えた語り口はドーキンスの真骨頂ここにあり。 といった、社会的意義とは別に「ほんとうに頭のいい人による口を極めた罵倒」というのは(下手をすると相手は罵倒されていることに気づかないかもしれないあたりも含めて)エンターテイメントとしても上質であるという貴重な例ですな。 (冨永哲(sr何でも相談室管理人)/2007-07-16) [16件以降をamazonで見る][amazonでレビューを書く] 平均点:4.0 はてブコレクション数: |
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悪魔に仕える牧師
ASIN:4152085657早川書房(2004-04-23) 翻訳:垂水 雄二/リチャード・ドーキンス 売上順位:140666 ¥ 2,520(中古:¥ 1,198) これを買った人はこれも買ったよ![一覧で見る] |
レビュー総評点:157
32本のエッセイを収録しているが、その殆どが初の邦訳であるのが嬉しい。
前作「虹の解体」で反オカルトに乗り出したドーキンスだが、今作ではさらに歩を進めて明確な反宗教的姿勢を打ち出している。 また、政治的な発言や私的な交遊についての言及が多く、これまでになくドーキンスの人柄や素顔が前面に出ている。 ただし、各エッセイはそれぞれ個別の問題について述べているため、巧みに関連付けられて配置されているとはいえ、これまでの著作の様なテーマの一貫性には欠ける印象がある。 ドーキンスの他の著作を未読の人が読んでも面白いことは間違いないが、本当にこの本を楽しみたければまず他の本から読むことを強くお薦めする。特に「盲目の時計職人」と「利己的な遺伝子」は必読である。それらは必ずあなたを魅了するだろう。その上で本書を読めば「あのドーキンスはこの問題についてどう考えているのか?」という新たな視座を手に入れることができ、より深く楽しむことが出来ると思う。そういう意味ではこの本はすでにドーキンスの魅力に取り憑かれたファン向けの本であると感じた。 なお、収録されたエッセイは25年の間に様々なメディア上で発表されたものが中心だが、惜しくも収録できなかったものも多数あるとのことで、反響しだいでは続刊も期待できそう。進化や科学について扱った極上のエッセイ集として、終生良きライバルであった故スティーヴン・ジェイ・グールドのエッセイ・シリーズに替わって刊行し続けてほしい。 (のづち/2004-05-06) 大半の本は、「面白くて一気に読んでしまう」か「面白くないので途中でやめてしまう」にわかれるのでしょうが、本書は「面白いのだけど、重荷とも感じられて、簡単に読み進められない」ものでした。結局、半年近くかかったことになります。
エッセイと聞くと「軽妙な表現」と対で使われることが目立ちますが、ドーキンスのエッセイは彼の日常の生身の表現なのでしょうか。正確だけど簡易ではなく、偏向を戒めますが主張は明確であり、合理的証拠を尊びつつ感性にも訴えようとする文章の連なりに圧倒されてしまいます。一般読者向けに書かれた本(例えば「利己的な遺伝子」)も決して平易な表現とは思えませんが、かなりの推敲を加え理解を引き出すための努力がなされたものだのではないかと感じます。 私も、若い頃に科学者になるのを夢見ていたころがありました。ある程度、科学的なものの見方をできているのではないかというわずかな自負はありましたが、たとえば宗教に対する考え方や、代替医療と呼ばれる領域に対する態度に確かな自信を持っているわけではないことに気づかされました。 単に、特定分野の科学の専門家としてだけでなく、科学的な立場とはどういうことなのかを積極的に広めようとされる意欲は尊敬します。訳者あとがきで紹介されている、ドーキンスが推進している「ブライト運動」のことも勉強したいと思います。 (jimmy/2005-09-11) ある分野で研究を長年続けていると、重箱をつつくようになりがちです。実験のこまかい方法や結果に難癖をつけてしまう。そういう自分に疑問を感じたときに、読む本ですね。
「人間の心にはふたつの病気がある」と本に書かれています。 なにだと思います? それは: 「世代をこえて復讐心を伝えていく衝動」 「人々を個人としてみるのでなく、集団としてレッテルをはる傾向」なのだそうです。こういう広い科学的な視点を、いたるところで発見できます。 翻訳にはひとつリクエスト。すばらしい翻訳でしたが、原文から少し離れて、もうすこしわかりやすい表現にしていただきたいです。 (hawaiijoho/2005-08-09) ドーキンスが研究していること、というよりもドーキンスが学問、真理、人間に対してどのようなスタンスを貫いているかが記された本。ポストモダンや似非科学、宗教を、真理を軽んじている、あるいは見損なっているものとして激しく糾弾する姿勢は科学者の模範として尊敬できます。
でも本書の一番の読みどころは(個人的には)今は亡き論敵グールドやひたむきな研究者としての生を全うしたハミルトンへ捧げられた哀悼の辞でしょう。とても美しい言葉で綴られた、感動的な文章です。 学術的なものではなくてエッセイ集ですので読みやすいかとも思います。 (マクシ/2005-05-24) ドーキンスは現在オックスフォード大学で科学を一般に広めるための活動に従事しているということです。
この本は彼の現在の活動ラインに沿って、科学的でないものへの徹底的な批判をしています。ポストモダンのフーコーやデリダなどのフランス哲学、オルターナティブと呼ばれる似非科学、本家本元のキリスト教、その他のニューサイエンスが槍玉にあがっています。 またポパーやクーンなどの著名な科学哲学者をも、物理学偏向の形而上学といった感じで認めないのは、ポパーが晩年、進化論を否定したりした体と思われます。ドーキンスにとっては、自己複製子とその選択的な増殖こそが、物理学以上に重要な科学的発見だといいたいのだと感じます。 その攻撃的な侮蔑には、名を成した科学者としては珍しいように思いますが、しかし、こういった執念や情熱があったからこそ彼の「利己的な遺伝子」というラディカルな書籍も出てきたのでしょう。科学者としてありたいと思う人はぜひとも読んでほしいエッセイ集です。 もう一つはグールドやハミルトンとの個人的な関係についてですが、これは進化生物学をある程度勉強していて、彼らの断続平衡説や包括適応度などの業績や考えについてある程度知る人には面白いでしょう。 あえて、批判を述べるなら、やはり全体の主題というものがなく、特にまとまりがないので、ドーキンスという人と業績を知っている人向けの本かなとは思います。 (蔵研也/2007-03-02) ドーキンスがこれまでいろんなところに発表してきた文をまとめたもの。
読みどころはいろいろあるが、ひとつあげるとするなら、論敵であるグールドとのやりとりである。進化論の解釈や手法についてはときに激しく論じ合いながらも、お互いを認め合うかれらの態度にはすがすがしさを感じる。 ドーキンスファンはもちろんグールドファンにもぜひ読んでもらいたい本である。 (nikurou/2004-06-08) 32本のエッセイを収録しているが、その殆どが初の邦訳であるのが嬉しい。
前作「虹の解体」で反オカルトに乗り出したドーキンスだが、今作ではさらに歩を進めて明確な反宗教的姿勢を打ち出している。 また、政治的な発言や私的な交遊についての言及が多く、これまでになくドーキンスの人柄や素顔が前面に出ている。 ただし、各エッセイはそれぞれ個別の問題について述べているため、巧みに関連付けられて配置されているとはいえ、これまでの著作の様なテーマの一貫性には欠ける印象がある。 ドーキンスの他の著作を未読の人が読んでも面白いことは間違いないが、本当にこの本を楽しみたければまず他の本から読むことを強くお薦めする。特に「盲目の時計職人」と「利己的な遺伝子」は必読である。それらは必ずあなたを魅了するだろう。その上で本書を読めば「あのドーキンスはこの問題についてどう考えているのか?」という新たな視座を手に入れることができ、より深く楽しむことが出来ると思う。そういう意味ではこの本はすでにドーキンスの魅力に取り憑かれたファン向けの本であると感じた。 なお、収録されたエッセイは長い間に様々なメディア上で発表されたものが中心だが、惜しくも収録できなかったものも多数あるとのことで、反響しだいでは続刊も期待できそう。進化や科学について扱った極上のエッセイ集として、終生良きライバルであった故スティーヴン・ジェイ・グールドのエッセイ・シリーズに替わって刊行し続けてほしい。 (のづち/2004-05-06) タイトルが面白そうだったので読んでみましたが、期待はずれでした。
全8件のレビューを表示しています。エッセイ集には違いないのですが、専門家もしくは相当の科学書好き向けに編まれたエッセイ集であり、とても素人が興味半分で手にとって理解できる代物ではありません。訳文も直訳に近いのか、言い回しが大変にまわりくどくて閉口しました。 カバー見返しに「必読の啓蒙書」とありますが、啓蒙とはバカにわからせること。私のようなバカに「なぜ科学は神を必要としないのか」をわかりやすく教えてくれる本でないことだけは確かなようです。 内容はきっといいことがたくさん書いてあるんだと思いますが、私にとっては猫に小判、もったいない出費でした。 (丁三/2004-07-25) [amazonでレビューを見る][amazonでレビューを書く] 平均点:4.0 はてブコレクション数: |
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神と科学は共存できるか?
ASIN:4822245721日経BP社(2007-10-18) 翻訳:新妻 昭夫/スティーヴン・ジェイ・グールド 売上順位:64892 ¥ 1,995(中古:¥ 1,780) これを買った人はこれも買ったよ![一覧で見る] |
レビュー総評点:28
"断続平衡説"の提唱者グールドの遺作となってしまった作品。アメリカで根強いキリスト教原理主義者による「創造論」に対する闘士としても著名なグールドが、科学と宗教の関係について論じたもの。科学万能を主張するのでは無く、科学と宗教との間に越えられない一線がある点を土台にしている点にグールドの人柄が窺える。
本書の中心概念は「NOMA(Non-Overlapping Magisteria)原理」と言うもので、平たく言えば、科学と宗教のような二律背反に見える概念が、別の領域として両立し得るという考え方である。尚、マジステリウム(Magisteria)とはカトリック用語で、"教えの権限の範囲"と言う程の意味の由。本書を書くに当たって、カトリックの専門用語を基本概念に使用する辺り、グールドの練達した書き手ぶりを示している。グールドが主張する所は、「科学と宗教は別個のマジステリウム」だと言う点である。そして、さりげなく「科学的な結論と聖書の解釈との間に矛盾があるように見えたら、聖書の注釈を再考した方が良い」と付け加えるのを忘れない。先達であるダーウィンとハクスリーに関する挿話は、NOMAの本質に迫って感動的である。グールド自身は無宗教なのだが、宗教の価値自身は尊敬しているのだ。そして、「十全な人生観を構築するためには、科学と宗教という2つのマジステリウムへの洞察を統合する」事が必要だと述べる。この時点で邦題に対する回答は出ており、「共存できるか ?」ではなく「いかにして共存するか ?」が真の命題となる。ここでやっと、現在のアメリカの多くの州で進化論が教えられていない点に対する批判に入るが、現教皇パウロ二世は進化論を認めているのである。グールドはアメリカの現状を、一部の原理主義者が科学のマジステリウムに介入しているからだと指摘するが、NOMA理論により、これを科学vs宗教(原理主義者)の闘争とは見做さない。両者の対話が必要だと言う。以下、科学のマジステリウムの心理面をダーウィンを例に取って詳説する。最後に上記の対話法について「和協主義」を中心に情熱を込めて語る。 科学にとって永遠の課題とも言える宗教との共存を論じた本が遺作になるとは運命的なものを感じる。グールドの科学観・人生観が味わえる心に残る良書。 (紫陽花/2007-11-17) ドーキンスの「神は妄想である」を読んだ人には是非読んでもらいたい一冊です。
「神は妄想である」の論調は宗教との全面対決を全力で打ち出したものなので、その情報だけをインプットするといささか思考に柔軟性が欠けてしまうように思います。 色々な側面から宗教と科学をとらえられるようになるためにも、この本の中庸案というのは非常に興味深いものでしょう。 中庸と言っても、決して生物学者であるグールドが宗教に日和っているわけではないのでご安心を。大人な対応という感じです。 グールドさん、亡くなられていたんですね…。 恥ずかしながら本書を手に取るまで知りませんでした。 生物学史上の偉人の最後の作品という点からも価値があると思います。 (ダニエル/2008-04-21) ”進化と創造”論争の歴史的経緯や、著者が関わった裁判の裏話は大変興味深かった。しかし科学史以上の価値があるかというと疑問だ。
不満は非常に多い。細かいところではダーウィンがNOMAを実践していたかのように述べているが、自伝でダーウィンは宗教を「理性のある人間があんなもの信じるなんて」と痛烈に批判しているのだ。また宗教と科学が未分化であった時代の先人たちの奮闘は称賛に値するが、それを紹介されても現代に応用するのは困難だろう。 フランシス・コリンズのような宗教的科学者はドーキンスが批判する神を「我々の神ではない」と退け、グールドに好意的だ。だがグールドの述べる宗教こそコリンズらが擁護する宗教ではない。科学の領域に立ち入らない宗教は人生哲学か倫理学そのものだろう。MOMAは、単にそういう考えがあると述べるだけでは中身のないファッション、あるいは現状維持の事なかれ主義だし、徹底すればあとに残るのは「科学と宗教」ではなく「科学と哲学」だ。コリンズらは宗教と科学は両立可能であるという耳ざわりの良い声明に、表面的に同意しているにすぎない。 後半四分の一は新妻昭夫氏の長大な、大変優れた解説がある。ここではドーキンスとグールドだけでなく、もう一人の知の巨人E.O.ウィルソンの宗教観にも触れている。ここだけでも900円分くらいの価値はある。 (いとみみず/2009-01-01) 「なんとかしよう」ともがくグールドが痛々しい。神と科学の共存という泥沼問題は、共存不能という(生物界にはよく見られる)居心地の悪い状態を許容せず、なんとか両者を共存させてさっぱりしたいという本能的欲望に起因している。この欲望が将来なくなるとは思えず、泥沼はこの先も延々と続くことだろう。
(Krokodil Gena/2008-10-12)
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利己的な遺伝子 <増補新装版>
ASIN:4314010037紀伊國屋書店(2006-05-01) 翻訳:日高 敏隆/翻訳:岸 由二/翻訳:羽田 節子/翻訳:垂水 雄二/リチャード・ドーキンス 売上順位:8766 ¥ 2,940(中古:¥ 2,500) |
レビュー総評点:261
ダーウィン進化論の核心である自然淘汰の原理を、淘汰の単位は遺伝子であるという観点から、 具体的な生物行動を例にあげて徹底的に考察した渾身の大作である。 初版30周年を記念して出版された増補新装版であり巻末の補注が多く分厚い。 作者は、生物個体とは利己的な遺伝子に操作された「生存機械」であると言い切る。 その視点から、これでもかというほど具体的な生態例をとりあげ、 数式を使わずに利己的遺伝子論の有効性を丁寧に立証していく。 後半あたりになると少し込み入った話になるが、根気良く読んでいけば十分理解は出来る。 長いので集中力を維持するのが大変だがあせらずじっくり読むしかない。 ただ、原文が元々そういう性格なのか、訳に所々まずいところが見られ読みづらさを覚えた。 追加された章については、 12章は「囚人のジレンマ」を例に簡単なゲーム理論の紹介があり興味深い。 13章は同じ著者による「延長された表現型」の要約で、利己的遺伝子論の拡張部分である。 なお、「natural selection」の訳を「淘汰」としている点がまずいとの指摘があるが、 この点については訳者はあとがきで、「自然淘汰の過程で生き残る」という意味で使ったと 注意を促している。つまり、「Aが淘汰される」とは「Aが淘汰の結果の生き残る」という意味である。 (柿の種/2007-03-08) 本書は、30年前の出版され社会的に大きな反響を巻き起こしたが、今や古典的名著といっても過言ではあるまい。学生時代に本書を読んで大きな衝撃を受けたというひとも多い。そうしたひとりである友人に強く勧められたのが本書を手にしたきっかけである。
そもそもダーウィンの自然淘汰論も大きな社会的反響を呼び起こし、経済学や社会学などの発展にも大きな影響を与えた。その自然淘汰論が定着する過程でいくつかの論理的矛盾も疑問として浮上してきた。頻繁に観察される利他的、自己犠牲的な個体行動が「種の保存」「弱肉強食」という論理と矛盾するからである。著者を代表とする生物学者たちは、それまでの(自分を犠牲にしてグループ全体に奉仕するという)群淘汰という考え方を俗論として退け、生物個体は遺伝子の運搬手段という「生物機械論」を唱え、個別の遺伝子の自己複製の最大化ということこそ淘汰のメカニズムと説いた。 こうした考えは、生物を機械に例え、遺伝子(生殖)が利己的意思を持つという例示への誤解とともに強い抵抗感を持たれた。一方で、その推論は、統計学的なシミュレーションやゲーム理論を駆使した斬新なものだったし、「自己犠牲」「全体奉仕」という古臭い社会倫理に心地よい論理をくつがえすものだったから、若い世代からは強い共感と支持を得たに違いない。 30年経った今読んでみても斬新な考え方であり、個体の意志的行動にとらわれた考えかたがいかに錯覚であるかがよく理解できる。生物学の分野ばかりでなく、市場主義的な経済理論や種々の社会的規制や経済制度設計をめぐってもその考え方や手法がもたらすものは今日的な意義が大きい。 (ノーツオンザロック/2008-07-02) 身近な例を挙げて遺伝子の性質を説明してくれているので、たいへんわかりやすいです。
生物の知識がない方でも大丈夫。 30年経っても内容が古びていないのは、普遍的な話が綴られているから。 この本の内容を友人に話したところ、生物にまったく興味がない人も興味を持ってくれました。 文系にもお勧めできる一冊です。 (真心/2006-11-08) 確かドーキンスだと思うが、別のところで
「進化論は誰でもちょっと努力すれば理解できるくらいシンプルだが、理解したことを他の誰かに話さずにいられない程度には難しい」 と言っていた。なるほどその通り、本書はすらすらと読めるほど簡単ではなく、 かみ砕いて理解しようとすれば何ヶ月もかかるが、そうしたくなるだけの面白さを持っている。 本書が述べていることは、進化論全般ではなく、 「自然淘汰が働く実質的な実体は種や個体ではなく遺伝子であること」と 「個体が利他的に振る舞っても、実はそれは表面的なもので、実質的に自分自身に利益があるのだ(利己的なのだ)」ということ。 進化論の概要を知らなくても読める程度にやさしく書かれてはいるが、さきに概説書などで進化論の概要を知っておく方が読みやすいだろう。 で、ハチの話。自然淘汰で説明できるというのは実は説明になっていない。 現生の生物は全て自然淘汰を受けて残っているわけだから。 なぜハチが(自分自身では子供を作らず、母の手助けに全人生を費やすかという) きわめて強い利他性を発揮するかという問題には個別の解説が必要だ。 生物が持つ一つ一つの性質にはそうやって個別の説明が必要なのだ。 それを簡単に述べたのが本書の10章。 つまり、自分で子供を作るより母にもっと産ませる方が (働きバチの中の遺伝子としては)より都合が良いのだ、と言うこと。 母の手伝いは利他的ではなく純利己的な行動なのだ。 人間の娘が母の家事の手伝いをしてお小遣いをもらう、のようなことよりももっと直接的に自己の利益になるのである。 そして同じように群れを作るハチでも、それぞれの生殖習慣によって働きバチの振る舞いが若干異なること、 また群れの中で(繁殖的な)主導権を握っているのは女王蜂ではなく実は働きバチなのだと言うことも明らかにしている。 利己的と言う言葉は大変誤解しやすく、読んでいても混乱することがある。 しかし他に適当な言葉はないし、しっかりと意味をつかむことが出来、理解できたときの喜びは何事にも代え難い。 (げるやん/2007-05-17) 中学生の頃だったか、高校生の頃だったか忘れてしまったけれど、一度読んで衝撃を受けた本の増補版ということで、思わず手にとってしまった。
当時は「遺伝子機械」という表現を真に受けて所詮人間なんて。。。と悩んでしまったが、30も過ぎて読むとひと味もふた味も違う。 端的に言ってしまえば、生物は意思を持って自己増殖行うように進化したわけではなく、ある環境において効率的に自己増殖が行えたから結果として生き残っているというある種の結果論的な進化論のように見受けられる。 しかし、同一種の遺伝子数が最大化することを前提とした上で、ゲーム理論によって生物の行動が予測できたり、遺伝子にとどまらず、自己複製子という定義に拡張しても理論が破綻しない点などから、長期に亘って存続可能なもの全てに対して適用できる普遍的な公理にも相当するのではないかと思う。 多くの示唆を含んでいて、それでいて数式を全く使わず読みやすく書かれている。 まさに名著である。 (Takahiro/2006-08-05) 自然界は多様で美しい。なぜかくも美しい自然が創られたのか。植物の花のひとつひとつの美しさ、昆虫の多様な世界、そして何よりも動物たちの多様な行動のレパートリー。魚の婚姻色、親鳥の偽傷行動(巣のありかを知らせないために親鳥が傷を負っているふりをして捕食者をだます)、犬や狼や鮎のなわばり行動、蜂の神風特攻隊……身近な犬・猫の行動の複雑さを想定してもよい。これらすべてを説明するのが「利己的な遺伝子」という原理。タイトルの「利己的な」という言葉に感情的に反発するのはやめよ。「遺伝子」という言葉に決定論的な反応をするのもやめよ。
ドーキンスは、この本でこうした想定される反応に明快に答えている。ドーキンスの二作目『延長された表現型』(最近、邦訳も復刊された)も読めば「世界は「利己的な遺伝子」が創る網の目構造」と読める。大英帝国の著者らしく、「大きな世界観を語るのが好きなのだ」。ポスト・ドーキンスの論を構築するには、この本を精読する以外からはできないと信じ、再読したが、索引の充実は便利。 この本をマスターすれば、議論上手になれる。相手の行動の裏も感じ取れる。「浮気する理由がわかる」というのは安直な理解。「利己的な遺伝子のせいで、自然はかくも美しく、世の中はかくも複雑、だから人は考え悩みつつ、生きることがかくも楽しいのだ」。 (サン・オヴ・アクア/2006-06-14) ”natural selection”に対応する訳がまずいな、と思う箇所が幾つか見受けられたのが残念だ。これは日本語で言う”自然淘汰”に対する語であるが、そもそも”selection"と”淘汰”の意味は異なっているという事を訳者達は意識しているのだろうか。勿論翻訳の段階で”選択”よりも”淘汰”の方が適当だと判断すればそのように訳せばよいのだろうが、(今本が手元に無いので具体的に何頁かはわからないが)例えば「猫の鳴き声は淘汰されて云々・・・」という件があり、この日本語から普通に考えれば、「猫・・・鳴くよね・・・」という疑問が生まれて当然である。このように読者を無駄に混乱させる文章が幾つか見受けられるのは如何かと思う。
(じむ/2006-12-15) 自然淘汰は遺伝子のレベルで行われていることを論証し、それによってこれまで説明がつかなかった利他的行為に説明を与えた本。
ただ注意が必要なのは、自然淘汰というのは「自らが生き残ろうとして主体的に子孫を多く残す」のではなく、「子孫を多く残すものが増えてしまった」だけである。 遺伝子もミームも、それ自身が主体的に「生き残ろう」としていたわけではない。 数学的に遺伝子の自然淘汰を書くと以下のようになるだろう。 ある遺伝子(A)の最初の個数をa、別の遺伝子(B)の最初の個数をbとする(遺伝子はこれしかないものと仮定する) また、Aが次世代に残す遺伝子の個数の期待値をp、Bが次世代に残す遺伝子の個数の期待値をqとする。 すると、n世代後の、全遺伝子中にAが占める割合はap^n/(ap^n+bq^n)である。 p>qであるならば、nが十分大きいとき、ap^n/(ap^n+bq^n)=1 つまり全遺伝子がAになっているということだ。 逆にp<qであるならば、nが十分大きいとき、ap^n/(ap^n+bq^n)=0 つまりAはいなくなるということだ。 利他的行動は、少し単純化して以下のように考えることにしよう。 ある遺伝子(A)の最初の個数をa、別の遺伝子(B)の最初の個数をbとする(遺伝子はこれしかないものと仮定する) A,Bともに、次世代に残す遺伝子の個数の期待値をrとする。 ただ、確率kで遺伝子3個が死ぬ事態が発生する。 そして、Aは上記事態が発生したとき、確率zで自己犠牲行動をとり、その遺伝子3個を助けるとしよう。(Bはいっさい自己犠牲行動をとらない) このとき、1世代後の、Aの個数はa(rー3rk(1−z)ーrkz)=ar(1−3k+2kz) Bの個体数はb(r−3rk)=br(1−3k) よって、n世代後のAの占める割合はa(r−3rk+2rkz)^n/{a(r−3rk+2rkz)^n+b(r−3rk)^n} r(1−3k+2kz)>r(1−3k)より、この値はnが十分大きいとき1。つまり全遺伝子がAになる。 よって、利他的行動は遺伝子レベルで見れば利己的である。 繰り返しになるが、遺伝子が作用するのは統計的に見てであり、個別の個体の行動を完全に左右してしまうわけではない。 実際、ドーキンスは「一方で遺伝子は人間の行動に統計的な影響力を行使すると考え、しかし他方で、その影響力を他の影響力によって変形させたり、克服したり、あるいは逆転したりできると信ずることは完璧に可能である」と述べている。 しかし、そう考えるとタイトルの『利己的な遺伝子』というのはミスリーディングだろう。 そこら辺に注意して読んでいただきたい。 (θ/2008-03-25) セルフィッシュ・ジーンなどキャッチーなフレーズ満載の啓蒙的色彩の強い一冊です。ほかのレヴューにもありましたが、竹内久美子の「そんなバカな!」で本書を知り手に取りました。ハヤカワ文庫やちくま文庫から頻繁に出ている科学ものと同様、素人にも馴染みやすくわかりやすいのですが、高齢化がますます進むこれからの社会で、いわゆる優生学まがいの施策を肯定する後ろ楯として本書のわかりやすさと、「そんなバカな!」にはない権威をまとったところとが援用されそうで少しこわくなったりもしました。杞憂でしょうが。なお、本書がすこし重いという方には,草思社がサイエンス・シリーズで出した一冊に同じ作者の「遺伝子の川」がありますので、そちらから。あるいは手っ取り早くちくま文庫の「ドーキンスvsグールド」なんかもあります。
(yoshioki6/2007-02-13)
なぜドーキンスの説は受け入れられる??? ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
誰も指摘しないのが非常におかしいのは、
「生殖能力を持たない(あるいは失った)個体の利他的行動は、ドーキンスの説をわざわざ引っ張り出さなくても説明できる」 ということである。 ミツバチの利他的行動はそれほど不思議ではない。それが生殖活動をしない個体によってなされるものだからだ。生殖活動をしない個体に限って現れる利他的行動は、その個体にとってなんら不利益になっていない。なぜならはじめから自分の子孫を残す気などさらさらないのだから。自分の子孫を残さない個体の生物学的な存在意義はないはずだ。ではなぜ自分の子孫を残さない個体が存在するのか。それは子孫を残す役割に特化した個体を守るためだ。働き蜂なら女王蜂を守るために存在する。「生殖活動を専門にする個体とその個体を守る個体を分けて役割分担する」のがミツバチの強みであるわけだ。生存本能の弱い働き蜂のような個体はなぜ淘汰されないのかと不思議に思う学者が多かったとドーキンスは言うが、そもそもこれは生殖しない個体に限って発現する利他的行動なのである。生存本能が弱ければ子孫を残せないから、結局淘汰されるんじゃないの? という指摘はそもそも成り立たないのである。 ミツバチのような利他的行動をうまく説明したのがドーキンスの考えだと言われる。この本の翻訳者も、ミツバチの行動は今までうまく説明できなかったがドーキンスによってうまく説明されたとあとがきに書いている。 しかしそもそも、生殖活動をしない個体が生殖活動を専門に請け負う個体を守る行動は、ダーウィンの普通の進化論の枠組みの中で、今述べたように十分説明できるものなのである。 そのような行動に対して支離滅裂な論理をこねくり回して妙な説明を付けるドーキンスが滑稽だ。 (luha/2006-10-15) 30年経っても色あせない科学書は大変珍しい。つい最近、洋書で「科学者はどのようにして私たちの考え方を変えたか?」というドーキンスをテーマにした25人の科学者によるエッセイ集が出版されたが、そのことからも本書の影響力の大きさが伺える。
本書はしばしば時代遅れだ、古すぎるなどと批判される。確かに本書を読んだだけで進化生物学を理解したと考えるのは間違っているが、本書が時代遅れだという批判も同じくらい間違っている。というのも、本書が紹介している自然選択のメカニズム、種の保存論の誤り、血縁選択、互恵的利他主義、ESSと言った概念は現代的な進化生物学の中核をなしているためだ。現代的な理論物理学を学ぶには、ニュートン力学の理解を避けて通れない。ニュートン力学が時代遅れだ(から学ぶ必要はない)などという批判が馬鹿げているのと同じように、進化生物学でそれらの概念が生き続けている限り、本書も素晴らしい入門書、概説書として生き続けるはずだ。 また本書は科学書であるだけでない。著者にはそのつもりはないかも知れないが、哲学的な問いかけも行っている。生物の存在や進化に意図や目的はないこと、種の保存のためという論理はかなり大きく誤っていること、家族をいとおしいと思ったり手助けをしたくなる感情には特別な説明が必要であることなどだ。非生物学者の読者にとっても、決して答えが見つからないだろうと思われがちな深遠な疑問や、疑問にすら感じないような当たり前のことを、論理的に深く考えるきっかけを与えてくれるだろう。 (いとみみず/2008-11-04) 遺伝子こそが生命の主体であることを示したあまりにも有名な生物学の古典。タイトルを見ただけで反感を持つ人も多いだろうが、神のみならず心をも生物の主体から引きずり下ろし、大きな生物学的パラダイムの転換をもたらした聖典である。
(Krokodil Gena/2008-10-05) ビッグバンで生まれた素粒子が、原子となり、分子となり、、、ある時、自己を複製する形態となり、遺伝子として自然淘汰を繰り返し、時空を超えて私たちの中にも受け継がれてくる。。。もし、遺伝子が生き残るために、私たち人間を乗り物として進化させたのならば、、、私たちを生かすために感情を発展させ、思考を発展させたのならば、、、もし脳のクオリアが、その結果であるとするならば、、、、、環境破壊や世界規模の戦争の危機に、生き残るために、次にどのような進化を起こすのでしょう。。。もし遺伝子が利己的であり、そして賢ければ、全世界が滅んで遺伝子自体が消滅しないために、生き残るために、環境破壊や世界規模の戦争や紛争をとめることもあるのでしょうか?
全13件のレビューを表示しています。心身二元論者であり、かつ唯脳論者でもある私にとって、とっても深いインスピレーションを与えてくれた一冊です。もちろん私の脳はドーキンスのミームに感染してます。。。 (CHAM/2008-09-24) [amazonでレビューを見る][amazonでレビューを書く] 平均点:4.5 はてブコレクション数: |
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虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか
ASIN:4152083417早川書房(2001-03) 原著:Richard Dawkins/翻訳:福岡 伸一/リチャード ドーキンス 売上順位:90443 ¥ 2,310(中古:¥ 1,194) |
レビュー総評点:3
凄い本です。
こういう本を読まなきゃいけないね。 ただ、もの凄い小さなフォントでしかも430ページというボリューム(汗) 都合二ヶ月ほどかけて読みました。 普段、科学とかにあまり縁がないので、ここに書かれていることはすべて新鮮。 全編、トリビアの泉状態だな。 タイトルにある虹の話なんかも。 そっかぁ、虹というのはなんだか単にロマンチックなものとして認識していたけれど。 水滴や粒子、光の屈折だとか・・ホントに科学的に解体していくとむしろ詩的になってくるから不思議。 オカルト的な話や星座占いの類に関してもメスを入れている。 ここに書かれているような情報を持ちながら、さらに事故責任で楽しむ事が良いかも。 (ka-min/2005-12-06) ドーキンス一流の芸が光ってます。優雅な論理展開で読ませます。
でも、論理的であること、科学的であることは訓練が必要で、訓練できていない人は絶対この本読まない。逆に、訓練できている人にはいわずもがなな内容も多いのだけれど、読ませる芸はさすが。 (美猴王/2001-05-28) どの本でも期待を裏切ることがないドーキンスの待望の書籍が翻訳された。本書では、真理の美しさを歌いあげている。
世の中では、科学の名をかたった偽物が蔓延している。 しかし、我々が受ける義務教育では、そのような偽物を識別できるだけの常識が身に付かない。教養の無い大人に囲まれていては、真理を理解する喜びより、発見する楽しさも経験できない。正しいことよりも楽なことを望むので、占いに関心を持ち、嘘でも心に気持ちのいい表現を信じてしまう。本書は、そのようなごまかしを具体的に指摘して、真理というものの奥深さと面白さを解き明かしてくれる。本書ではBBCが非科学的な番組を放映している問題を指摘しているが、日本でも似たような状況だ。公共放送でも空飛ぶ円盤を取り上げたり、民法では非科学的な番組のスポンサーに大電機企業がついていたりする。日本語では神秘やロマンという表現で、自然の興味深い仕組みを表すことが多いが、やめてほしいものだ。嘘はどのように着飾っても、嘘でしかない。 本書を多くの人たちが読むことで、真理に近づける喜びを感じることができる人が増えていくことを願う。 本書の訳者あとがきにはがっかりする。訳者は、本書の良さをまだ十分理解できていないのでは無かろうか。 (lionfan/2005-02-13) 科学関連のエッセイです。
全4件のレビューを表示しています。占星術がいかにデタラメかを述べる文章がよかったです。 -------------------------------------------------------------------- 占星術師の仕事は、ほとんど訓練や技術を必要としない。 だから、そのあたりの暇をもてあました若い記者に回されることになる。 一九九四年一〇月六日の《ガーディアン》紙で、 ジャーナリストのジャン・モワールは次のように述べた。 「ジャーナリストとして初めてやった仕事は、くだらない女性誌に星占いを書くことでした。 あの作業は決まって新入社員がやらされます。 つまらなくて簡単で、当時の私みたいなケツの青いやつにもできる仕事なんですよ」(p171) -------------------------------------------------------------------- (/) [amazonでレビューを見る][amazonでレビューを書く] 平均点:4.0 はてブコレクション数:この商品をリストに入れている人:
ライフサイエンス リチャード・ドーキンス 〜神としてのDNA 読むべき本リスト3 本3(科学) 最近読んだ本 おお、朝ごはん 購入したのに、、未だ読んでいない本。 サイエンス&ネット 思考の贅沢 bedtime reading |
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盲目の時計職人
ASIN:4152085576早川書房(2004-03-24) 翻訳:日高 敏隆/リチャード・ドーキンス 売上順位:29742 ¥ 3,150(中古:¥ 2,260) これを買った人はこれも買ったよ![一覧で見る] |
レビュー総評点:-161
名著「ブラインド・ウォッチメイカー」の改題新装版。
生物の持つ複雑で見事な適応を説明できる唯一の理論が自然淘汰説だけであることを実に解りやすく、実に丁寧に、実に説得力を持って示す手腕にはただただ舌を巻く。 なんとなく「自然淘汰って間違ってるんじゃないの?」と思っている人もこれを読めばたちまち熱狂的なネオ・ダーウィニストに転向するだろう(私がそうであった様に)。 神による創造や根強い人気を誇るラマルキズムを正面から粉砕し、それらが実際問題として間違っているだけでなく、そもそも論理的にありえないことを指摘したくだりは美文とあいまって圧巻。 旧版の帯には「ダーウィン進化論の理論的到達点」、ある本のコメントには「説得される快感を味わわせてくれる」とあったがこれらの言葉に嘘はない。 (のづち/2004-05-06) ダーウィンの進化論に対してしばしばなされる批判として次のようなものがあります。猿に適当にタイプライターを叩かせて、それが偶然シェイクスピアの詩になるにはどれくらいの時間がかかるだろうか。その可能性はとてつもなく低いものなので、莫大な時間がかかるだろう。そのようにして考えると、自然淘汰では、たった46億年という時間では、人間のような恐ろしく複雑なものができあがるはずはない。進化というプロセスには、人間を作り出そうという(神の)意図があったのではないか、というのがそれです。Dawkinsはこの本の中で、cumulative selectionという概念を用いて、盲目の(blind)職人でも、腕時計(watch)のような構造物を作り出す(make)ことがある、という議論を展開しています。その議論の説得力と、読者を最後まで飽きさせない面白さには、「さすがDawkins」と思わざるを得ませんでした。
(エウレカ/2003-04-05)
ドーキンスは前著「利己的な遺伝子」と「延長された表現型」で、“個体”中心の進化観から“遺伝子”中心の進化観へのパラダイムシフトを提案してきました。しかしこれらの著書では読者が前提としてダーウィン進化論を受け入れていることが想定されているようで、門外漢にはよく理解されなかったのではないかと思います。
そこで、一般読者を対象に「ダーウィン進化論」そのものを解説する、という趣旨で書かれたのが本書です。生物の複雑な適応的デザインの進化はダーウィン的な累積淘汰でしか説明できないことを、圧倒的な説得力をもって解説していきます。原書出版から20年を経ても、今なお色あせない最高級のダーウィン進化論の入門書でしょう。とはいっても簡単ではないところがドーキンス流。相手が一般読者だからといって議論のレベルを落とすようなことはしません。 本書の魅力的な部分を挙げれば、なぜ進化論が理解されないのか?という疑問に答えているところです。人間の認知能力もまた進化の産物である以上、せいぜい(人間の寿命である)数十年というタイムスケールでおこる事象までしか直観的な理解が及ばない。だから生物進化という数百万年規模で起こる事象については、直観的に「起こりそうもない」と判断してしまうのだ、という議論です。(同様の主題は後の著書「虹の解体」でも展開されています。)また、創造論者に対する対決姿勢を鮮明に打ち出したのも本書が最初であること。グールドとの論争が、ダーウィン主義の枠組み内での建設的な議論であったことも良くわかる、などドーキンスファンにとっては歴史的な価値も高い名著です。 先日国立科学博物館の「ダーウィン展」を見に行ったところ、物販コーナーに本書がグールドの著作と並んで平積みにされており、思わず微笑んでしまいました。以前にも読んでいましたが、改めて読み返してみてその価値を再確認したところです。 (ali-shara/2008-05-24) 前に『利己的な遺伝子』を読んだときのも思ったのですが,この人の文章ってちょっと冗長ですよね.たぶんなるべく誤解を招かないように慎重になっているからだと思うのですけど.
本書も,面白かったのですが,邦訳で500ページもある.たぶんその気になれば300ページくらいになるんじゃないかと思うのですが. ところで,グールドの論敵であるドーキンスが,グールドの断続平衡説に対する世間の(創造論者の?)誤解を正そうとしている点はおもしろかった.しかも微妙に断続平衡論者に対するけん制も織り交ぜながら. あと,中立進化説の意義についてこの本を読んでようやくわかってきたような気がする.形質が似ているふたつの種があって,その類似性は,収斂進化(別々に進化したのだけど結果的に形状が似てくる進化)のためなのか,類縁関係があるからなのかが判断できるということなんですね. (御猫大明神/2007-02-09) |


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